「わたし」ってなんだろう? 「あなた」との関わりから「わたし」を考える【読書日記35冊目】
公開日:2021/1/12
2020年11月某日
“彼ら”の存在に気付き始めたのは、大学生のときだった。
最初はガラス越しに景色を見ているような気分になるだけだったけれど、そのうちに私の身体を使って誰かが話しているような感覚に陥る。声を発しているのは私、目の前にいる人が私の名前を呼ぶから〈私〉は私にも紐づいているのだろう。けれども、インストールしたソフトが暴走するような、憑いた霊が〈私〉を操るような心地に、〈私〉が単一の私だけで構成されているという観念がしっくりこなくなった。
“彼ら”は複数人いて、しかも唐突に現れたり消えたりする。ガラスの内側に急に押し込められたり、現実にはたと置き去りにされたりする〈私〉は、“彼ら”を苦々しく思うこともあった。
けれども、〈私〉の体調が悪いときに執筆仕事や人とのコミュニケーションを“代わってくれる”ことには随分と助けられていた。“彼ら”は〈私〉よりもずっと書くことや人と喋ることなどに長けていて、“彼ら”が表に出ているときに限って文章や人当たりの良さについて褒められることが多い。周囲の人たちはそれを私の功績として褒めてくれるけれども、それは〈私〉のしたことではないので、素直に喜んでいいのかわからない。それでも、凡庸な〈私〉は“彼ら”と共存していくことにした。
“彼ら”は〈私〉の友達で、私の身体は〈私〉と“彼ら”がシェアする「箱」だ。その箱に私の名前が付いていて、周囲の人が私の名前を呼ぶから、〈私〉のときも“彼ら”のときも、私をギリギリやれている。他者と私との関わりが、ないまぜになった“私たち”をなんとか同一の私に繋ぎとめているという感じだ。
*
〈私〉について考えるとき、私たちは他者や社会や“彼ら”を媒介にして〈私〉を見出すことが多い。『SUNNY特別号「あなたとわたし」』(SUNNY BOY BOOKS)もまさにそんな本だ。
同書には、SUNNY BOY BOOKSにゆかりのある作家や絵描き、編集者、本屋オーナーといった多様なバックグラウンドを持つ10名が「あなたとわたし」をテーマにした作品を寄稿している。同書のコンセプトはSUNNY BOY BOOKSの店主・高橋和也さんが影響を受けたという人類学者・松村圭一郎さんの『はみだしの人類学』(NHK出版)の一文に触れるのが早いだろう。
“はじめから「わたし」なんて、ひとりで存在しているわけではなくて、他者の存在によってやっとはじめてその姿をつかむことができる。たぶん私たちは子どものころから、そうやって他者を「わたし」という存在の手がかりにしてきたのだと思います”
同書は、「あなたあってこそのわたしを見つめ直すことで見えてくるもの」を手がかりに、関わりの可能性を開くことが目指されている作品集なのだ。
絵描き・絵本描きである阿部海太さんの「今どこにいるかわからないあなたへ」では、もう会えなくなった「あなた」に宛てた手紙のような文章から、あなたとわたしの関係が表されている。短い文章の中に織り込まれた時間の厚みと感情の堆積を前に息が詰まった。
イラストレーター・コミック作家として活動しながら、ZINEの創作やテキスト作品も手掛けるカナイフユキさんの「わたしを名付けるのはあなただから…」は、「名前をつけることは、その対象を支配することなのかもしれない」という問題意識から出発する。他者が「わたし」を規定することへの恐怖や、名前が「わたし」の多面性を削いでしまうことへの戸惑いが綴られている。葛藤の渦中にある「当事者」の視点に立って語られる独白を読んでいると、読み手の側も「当事者」の混乱に巻き込まれたと錯覚してくる。
小説家の温又柔さんは「私の中の〈かのじょ〉たち~あなた(たち)と私の間で~」の中で、作品を書くときの内的世界を描写する。小説を書いているのは私ではなく、私の中の〈私〉と内なる〈かのじょ〉(たち)、すなわち〈私〉に対する〈あなた〉の関わりの中で編み出されるという。小説を書くことは内なる他者との対話の中で生まれる、世界を拡張する豊かな行為なのだと思うと、胸のあたりが熱くなる気がした。
そのほか、自分の身近な他者との関わりから掬い上げる「あなたとわたし」の物語も多く、それぞれにキャラクターや人となりが色濃く出ている。書き手が違えば、トンマナが異なるのは当然だけれど、イラストが入っている章もあれば、抽象度の高い文章もあり、章ごとにフォントの種類もサイズも形式も異なる。
短いテキストの中に各書き手の世界が凝縮されているため、チューニングがうまくいかずに目が滑ってしまい、何度も読み返した作品も中にはあった。スムーズに読めたほうがストレスも少ないという意味では目が滑らないほうがいいし、体裁はある程度整っているほうがいい。目が滑りやすい文章や自由度の高い作品がひとつに編まれている状態は、(誤解を恐れずに言えば)、“不快”の一種に数えられる。
けれど、多くの人にとっての“快”を優先して“不快”を排除した状態とは、多様性とは名ばかりの今の社会ではないだろうか。異なる“素材”の良さをそのままに混ぜ合わせた小さなサラダボウルをたくさん世に出していくことこそ、草の根レベルでできる現状の社会へのカウンターのように思える。
そうして世に出したものがどこかや誰かに漂着し、別の波となってわたしのかたちを変えていくこともまた、良い影響につけ、悪い影響につけ、豊かなことのように思う。めくるめく「あなたとわたし」の物語を受け取った、私も豊かさを享受した人のひとりだ。
*
私は、今でもときどき非連続になる。“彼ら”の誰かに記憶を持ち去られて〈私〉としては空白の時間もある。多くの人が連続する自分を生きている中で、非連続である自分はとても不安だ。
けれど、人生の区切りごとに“別の人間”になる民族もいるという。たとえば、私がその民族として生まれたら、こんな不安を抱えることはなかっただろう。
わたしは、当たり前は、他者や社会によって規定される。
属する社会のコードを読みながらも、「逸脱」を過度に恐れずに生きていきたい。
文=佐々木ののか
バナー写真=Atsutomo Hino
写真=なかむらしんたろう
【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。6/25に初の著書『愛と家族を探して』(亜紀書房)を上梓した。
Twitter:@sasakinonoka