世間とズレちゃうのはしょうがない? 伊集院光×養老孟司、ふたりの異才が語り合う縦横無尽でスリリングな白熱のトーク!
公開日:2021/1/24
元々落語家だった伊集院光氏は、テレビのクイズ番組に多数出演し、ラジオ・パーソナリティとして弁舌さわやかなところを見せる「しゃべりのエキスパート」。一方、養老孟司氏は、解剖学に没頭する傍ら、昆虫の採集にも血道をあげてきた東大名誉教授。『世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP研究所)は、以前から交流のあるふたりの対談本だ。話題は登校拒否、戦争、論文、お笑い、AIなど多岐にわたり、両者が阿吽の呼吸で話題を膨らませてゆく。
ふたりはまず、現実を切り取る用語として「内」と「外」という概念を持ち出す。生きている人と死んでいる人、都市と自然、それらが世間の「内」と「外」に対応する。伊集院氏は子供の頃から身体が極端に大きいことを気にして、世間の「内」からはじき出されることを恐れた。結果、高校を中退し落語家になったわけだが、それまでは「ズレている」孤独さに悩まされてきたと言う。
そんな伊集院氏がお笑いを「内」「外」に絡めて話すくだりが面白い。お笑いは、基本的に世間の「内」に踏みとどまっているから面白いのであって、完全に「内」から出てしまったらアウトだと言う。なるほど、不謹慎で不道徳なネタは話題にはなっても、スポンサーや視聴者からクレームが来るのは必至。だから、「これ、今お笑いの秩序からはずれているな」と感じた時の恐怖は名状し難いものがあると伊集院氏は言う。
今の世の中は内と外のバランスが極端になっている、とふたりは言う。ガチガチに「内」に縛りつける世間と、そこからはみ出し孤立している「外」の人間がいて、その中間点が許されない。両方から見捨てられたら、終わりというわけだ。そこで養老氏は自分が拠って立つ軸を複数持つべきだという。曰く、「2軸」を常備しておくべきだと。
昔なら都市部でドロップアウトしても、地元で農業をやるという選択肢があった。今ならば、学校が辛かったら、自宅や別の施設で勉強する選択肢もある。2軸があればどちらかでズレを感じても、別の軸で受け入れてもらえる。そんな安心感が、自分の「ズレ」と折り合いをつける秘訣かもしれない。
また、養老氏は大リーグで活躍する大谷翔平の二刀流について、ふたつの軸を持ったほうが想像力が発揮されると言う。ピッチャーとバッターのふたつの軸を切り替えながら、バッターとしてどこを攻められたら嫌か、ピッチャーでどこに投げたら打ちとられないかを知ることで、無意識にであっても相乗効果が起こるという。明察である。
「内」と「外」という話から、ふたりが様々な話題に「ズレ」るのがべらぼうに面白い。例えば、言葉を発すればすぐ届く距離に座っている部下が、課長と仕事の話をメールでやりとりするという話。直接課長のデスクに行って伝えればすむのだが、そうすると、課長の機嫌が悪いとか、ひどい二日酔いだとか、余計な情報が部下に入ってくる。たとえば電話なら、声のトーンで機嫌が悪いといったことも伝わるだろう。
だが、そうした情報は不潔で猥雑で意味不明だから、存在しないほうがいいと思われている。そう養老氏は言う。転じて、趣味での世界では不便を楽しんでいくほうが創造的、という養老氏に対して伊集院氏は落語を例に出して切り返す。
落語がすごいのは、噺家の話芸のみで、ハイヴィジョンな映像に劣らぬほどの景色を見せてくれるところだ。そう伊集院氏は言う。これだけクリアな映像が世の中にある中で、落語は大人がしゃべっただけでその情景を浮かびあがらせる。あるいは、文通将棋というゲームにも言及。文通で一手ずつ将棋を指すと、相手の一通が5日ほど経って返ってくるのだそうだ。
要は、不便を嫌い、無駄を省き、ノイズを排除するという世間だから、みんな結婚しないのかもしれない、と養老氏。あくまでも「内」に留まることに拘泥し、思い描いていたヴィジョンから外れることを嫌う。そうした「1軸の内側」志向は、究極的には人間そのものも、雑音として駆除しようとしているかのようだ。
こうした風潮から逃れる術として、養老氏は自然とふれあうことを推奨する。ネット社会にいると、好きな人や情報にしか触れなくなり、自分とズレている人を「外」に追いやりたくなってしまう。そこで養老氏は、先述のもうひとつの「1軸」に自然に据えすることを提案。
都会に住む人は、今いるところから外れて真逆のところに行くといいと言うのだ。もしストレスを溜め込んでいる都会人なら、田舎や自然に一定期間外れてみる。外れて違うと思ったら戻る。そして戻る時には以前と違うものが見えるはず。「2軸」を実践してきた異才ならではの言葉は重みと説得力が違う。もちろん、その養老氏のロジックを噛み砕いて話す伊集院の存在感もなかなかのもの。このふたりのコンビならではの本でもあるだろう。
文=土佐有明