太宰治が第一回芥川賞落選で川端康成に逆ギレ…そうまでして受賞したかった理由/炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史①

文芸・カルチャー

公開日:2021/1/26

日本文学史に残る数々の名作の裏には、炎上があった…! 不倫やフェチ、借金、毒親、DVなど…文豪たちは苦しみながらアノ名作を残した。炎上キーワードをひもとき、彼らの人生の一時期を紹介する『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』(山口謠司/集英社インターナショナル)から、5つの炎上案件を掲載!
※本記事は 山口謠司 著の書籍『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』から一部抜粋・編集した連載です

炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史
『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』(山口 謠司/集英社インターナショナル)

太宰治と憤怒

見苦しいほどの功名心と金欠

炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史
イラスト:三浦由美子

 私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。(中略)刺す。そうも思った。大悪党だと思った。
太宰治「川端康成へ」)

 

「憤怒」の「憤」は心の怒りが火山のように爆発することである。また「怒」は、張り裂けるように強い緊張感で怒りが心に籠もることをいう。

 太宰治(一九〇九~一九四八)はなぜこんなに怒っているのか。

 そしてこの時の「憤怒」の気持ちが、その後、太宰の名作を生み出していくこととなる。

運命を分けた第一回芥川賞

 第一回芥川賞が発表されたのは、昭和十(一九三五)年の八月のことだった。

 受賞作は、石川達三の「蒼氓」だった。

 この作品は新早稲田文学の同人たちが創刊した同人誌『星座』に、石川に無断で掲載されたものだった。

 国民の口減らしのためにブラジル移民を促進する国策に対して、「仕方なしに外国へ奉公にやられる人々の悲しい現実」(「蒼氓」)を書いたものである。

「蒼氓」とは「人民」「民」を意味する言葉である。「蒼」は、「あお」い色を表すが、生い茂るように次々と生まれる無数の「民」をも表す。また「氓」にも「民」という字が見えるが、「亡」が附くことで、とくに「故郷を捨てて移住していく民」を意味する。次々と生まれては、故郷を失っていく可哀想な人たちという意味の言葉なのである。

 ナチスドイツがニュルンベルク法でユダヤ人の公民権を停止し、国内では天皇機関説を唱える美濃部達吉の著書が発禁になるなど、内外に次第に焦臭さが漂い始めていた時期だった。

 石川達三の「蒼氓」は、まさにこうした時代、国家権力への抵抗を文学として表現したもので、選考委員の久米正雄、山本有三らが推して受賞が決まる。

 さて、第一回芥川賞には太宰治の「逆行」も候補作のひとつに選ばれていた。

 もし、芥川龍之介の珠玉の短編を継承するものに「芥川賞」を与えるとすれば、石川達三の「蒼氓」より、太宰の「逆行」の方がそれに相応しいのではないかと思う。

 太宰の「逆行」には、深い淵の上に立って、虚無の闇を覗くような怖さが、無駄のない文章の間に漂っている。

 しかし、「逆行」は、芥川賞を受賞することはなかった。

 選考委員のひとり、川端康成は、芥川賞受賞者を発表した「文藝春秋」九月号に、「なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」と書いた。

「道化の華」は「逆光」の参考作品として挙げられたもので、「生活に厭な雲」とは、太宰の自殺未遂と薬物依存を指摘するものである。

 これを読んだ太宰治は、川端が、太宰の私生活の問題を理由に芥川賞受賞を邪魔したと考えたのだった。

「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。(中略)刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と、太宰は文藝春秋社が出版する雑誌「文藝通信」十月号にこの「川端康成へ」を載せたのだ。

 川端は、これに対する冷たい返事として、「太宰治氏へ 芥川賞に就て」を同誌十一月号に寄稿する。

「芥川賞決定の委員会席上、佐佐木茂索氏が委員諸氏の投票を略式に口頭で集めてみると石川達三氏の『蒼氓』へ五票、その他の四作へは各一票か二票しかなかった。これでは議論も問題も起りようがない。あっけない程簡単明瞭な決定である(中略)太宰氏は委員会の様子など知らぬと云うかもしれない。知らないならば、尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい。『生活に厭な雲云々』も不遜な暴言であるならば、私は潔く取消し、『道化の華』は後日太宰氏の作品集の出た時にでも、読み直してみたい」

 この時、太宰は二十六歳だった。

どうしても受賞したかった理由

 太宰は、芥川龍之介という作家を高校生の頃から敬愛していた。芥川賞が欲しいというのは、尊敬する芥川の文学性を自分こそが継承するのだという気持ちの表れでもあっただろう。

 そしてもう一つ、賞金の五百円がどうしても欲しかったのだ。

 現在の芥川賞の賞金は百万円であるが、当時の五百円は、現在の百万円の価値を大きく超えるものである。

 この頃太宰は、実家からの仕送りでは生活できなくなっていた。この年の四月、腹膜炎の手術の際に鎮痛剤パビナールの注射を受けて以後、その依存症になって、お金がいくらあっても足りない状態だったからだ。授業料未納で、東京帝国大学文学部仏文学科を除籍になったのも、同年九月三十日のことである。

 名誉としての芥川賞だけではなく、賞金五百円も、喉から手が出るほど、太宰にとっては必要なものだった。

 翌年、太宰は選考委員の一人で、師と仰いだ佐藤春夫に「第二回の賞は私に下さいますよう伏して懇願申し上げます」と手紙を書く。

 しかし、第二回芥川賞には、太宰は候補にも挙がらなかった。

 さらに、第三回芥川賞に対して太宰は処女小説集『晩年』を引っ提げて、恥も外聞もなく「何卒私に与えて下さい」と川端に懇請する。

 だが、これも候補にさえ挙げられなかった。

 過去にすでに候補となった作家は、選考対象から外すという、この年に決められた規定によってである(念のため言っておくと、現在の芥川賞では、この規定はなくなっている)。

 太宰の芥川賞受賞の夢は、ここで潰えてしまう。

 しかし、太宰は、書くことをやめはしなかった。

「ダス・ゲマイネ」「燈籠」「富嶽百景」「黄金風景」「女生徒」と、続々作品を発表した。

 そしてついに、川端康成は「女生徒」(昭和十四年四月号『文學界』)を読んで、「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と高い評価をするようになるのである。

 太宰が山崎富栄と入水自殺したのは、第一回芥川賞発表から十三年後の昭和二十三(一九四八)年のことだった。

 平成十(一九九八)年に遺族が公開した遺書には、「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」(『新潮』平成十年七月号)と書いてある。しかし、それよりも女たちとの関係、酒、薬、お金など、いろんなことががんじがらめになって、面倒になったのではなかったか。

 いろんな面倒をチャラにするために、太宰は山崎が貯めていた十数万円(現在の約一千万円)のお金を遣うのだが、蜘蛛の巣にかかってしまったように、もがけばもがくほど、自分にはもう逃げ場がないことを知ってしまったのであろう。

 太宰の川端に対する「憤怒」の気持ちは、こうして身体の不調や女性問題などと一緒に、この時消えてしまったのかもしれない。

 もし、太宰が、第一回芥川賞を獲っていたら、どうなっていたのか……。ドロドロと身を崩していく太宰はいなかったかもしれない。

 しかし、そうであれば、名作『津軽』『パンドラの匣』『人間失格』なども生まれてこなかったかもしれないと、複雑な思いがするのである。

こう生きて、こう死んだ

太宰治 明治四十二(一九〇九)年~昭和二十三(一九四八)年

青森県の大地主の家に六男として生まれる。本名、津島修治。父親は貴族院議員も務め、邸宅には三十人ほどの使用人がいた。十六歳の頃から創作を始めるが、十八歳の時に敬愛する芥川龍之介の自殺を知り強い衝撃を受ける。二十歳の時に最初の自殺未遂。その後、東京帝国大学文学部仏文学科に入学。高校時代から傾倒していた左翼活動に挫折し、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、作品を次々に発表。井伏鱒二の紹介で地質学者の娘、石原美知子と結婚。戦後は、その作風から無頼派と称された。玉川上水で愛人の山崎富栄と入水自殺をはかり、三十八歳でこの世を去った。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』『斜陽』など。美知子との娘の津島佑子と、愛人の太田静子との娘、太田治子は共に小説家。

<第2回に続く>