京都出身の著者だからこそできる“いけず”の表現【手のひらの京/綿矢りさ】/本は3冊同時に読みなさい④
公開日:2021/2/9
長い期間での外出自粛が求められて、お家で過ごす時間が増えた人も多いのではないでしょうか。こんなときこそ、読書をして人生を豊かに広げましょう。月平均300冊読む佐藤優氏が一生ものの読書法を伝授。これまでの書評をまとめた1冊から厳選してご紹介します。
私はあまり小説を読みませんが、小説だから描ける世界があると感じています。特に自分の理解がとうてい及ばない世界を、小説を通じて知ることがあります。
池澤夏樹さんが角田光代さんの『八日目の蝉』(中公文庫)の解説の中で、「つまりこれは 相当に過激なフェミニズムの小説なのである」と書いてらっしゃいますが、おそらく池澤さんも私と同様、自分の理解が及ばない世界を角田さんの小説から感じ取られたのではないかと思います。ここに挙げた綿矢りささん、柚木麻子さん、小島慶子さんらが描く女性たちの細やかな心理描写を、私は興味深く、そして、おっかなびっくり覗き見るかのように読みました。
1960年生まれの私にとって島田雅彦さんは同世代作家の英雄的存在と言っていいでしょう。浅田次郎さんもまた、小説世界を切り拓く貪欲な作家。前に進んでいく力は、分野は違えど、私自身の大きな刺激になっています。どんな状況においても諦めずに前に向かっていく力を、優れた小説家たちから得ています。
『崩壊の森』の主人公は、私の戦友でもある元産経新聞モスクワ支局長の齋藤勉がモデル。
2020年10月27日に95歳で亡くなった大城立裕さんは単なる二分法では理解できない沖縄を小説という形で見事に描きました。個人的にも目をかけていただき、私が作家として成長する過程でとても影響を受けた人です。
手のひらの京
綿矢りさ 新潮社
京都で生まれ育った奥沢家の三姉妹、綾香(長女、図書館員)、羽依 (次女、京都の一流企業の一般職)、凜(三女、大学院生)の日常生活を描きながら、家族、職業、恋愛などについて深く考察した作品だ。
京都で生まれ育った綿矢りさ氏にしか書けない、古都独自の風習に関する紹介がところどころにはさまる。これが抜群に面白い。たとえば、京都の「いけず」についてだ。<京都の伝統芸能「いけず」は先人のたゆまぬ努力、また若い後継者の日々の鍛練が功を奏し、途絶えることなく現代に受け継がれている。ほとんど無視に近い反応の薄さや含み笑い、数人でのターゲットをちらちら見ながらの内緒話など悪意のほのめかしのあと、聞こえてないようで間違いなく聞こえるくらいの近い距離で、ターゲットの背中に向かって、簡潔ながら激烈な嫌味を浴びせる「聞こえよがしのいけず」の技術は、熟練者ともなると芸術的なほど鮮やかにターゲットを傷つける。
普段おっとりのほほんとして響く京都弁を、地獄の井戸の底から這い上がってきた蛇のようにあやつり、相手にまとわりつかせて窒息させる呪術もお手のものだ。女性特有の伝統だと思われている向きもあるが、男性にももちろん熟練者は多い。嫌味の内容は普通に相手をけなすパターンもあれば、ほんま恐ろしい人やでと内心全然こわくないのに大げさにおぞけをふるうパターンもある。しかし間違ってはいけないのはこの伝統芸能の使い手は集団のなかにごく少数、学校のクラスでいうと一人か二人くらい存在しているだけで、ほとんどの京都市民はノンビリしている>。
この作品の中では羽依が「いけず」の攻撃を受けやすい。それだから反撃法についても熟知している。「いけず」を<黙って背中で耐えるものという暗黙のマナー>を破って、振り向いて咆哮のような大声で、<「私に向かって悪口言うてるんかと聞いとるんや!」>と 反撃するのだ。すると少なくとも羽依に聞こえる場所での「いけず」はなくなる。もちろん陰では今まで以上に悪口を言われるようになるが、聞こえない話は存在しないことというルールを自分の中で作れば、イライラせずに済む。
評者は、同志社大学神学部と大学院で学んだので、京都には6年住んだ。京都人は、学生と観光客(いずれも京都にとって重要な収入源)に対しては優しいので「いけず」に悩まされることはなかった。ただし、大学の京都出身の教師には「いけず」のプロのような人がいた。気にくわない大学院生の修士論文に「なんとなく分かりにくい」というような抽象的な理由をつけて、いつまでも審査しないということもあった。こういうときに暴れる学生には、教師は譲歩する。しかし、おとなしくしていると「いけず」がエスカレートした。京都出身の「いけず」系の学者や評論家の嫌がらせには、評者は「東えびす」の乱暴さを発揮して羽依のように反撃することもあれば、エッセイに特定の人々には真意が分かる「犬笛」(人間には聞こえない音域を使う笛)で応えることもある。
――「ケトル」vol.35