誰もが複数の人格を上手に飼い慣らして生きている【虚人の星/島田雅彦】/本は3冊同時に読みなさい⑥
公開日:2021/2/11
長い期間での外出自粛が求められて、お家で過ごす時間が増えた人も多いのではないでしょうか。こんなときこそ、読書をして人生を豊かに広げましょう。月平均300冊読む佐藤優氏が一生ものの読書法を伝授。これまでの書評をまとめた1冊から厳選してご紹介します。
虚人の星
島田雅彦 講談社
優れた小説は、複数の読み解きが可能になる。本書は、ユーモア小説、パロディ小説、スパイ小説、政治小説などとして読むことができる。私はこの作品を、誰もが持つ複合アイデンティティーを描いた小説として読んだ。
人間は社会の中で、さまざまな役割を果たさなくてはならない。例えば、ここに55歳の日本人の男がいるとする。この男は、会社では営業部長、家では夫であり、父、所属している宗教団体では支部長などさまざまな役割を果たしている。役割によって行動が異なる。宗教団体では、いつもニコニコしている人格者であるにもかかわらず、家庭では父権主義的な暴君で、会社では上司にはおもねるが、部下からは成果を徹底的に搾取する上しか見ていない「ヒラメ型人間」だ。さらに、愛人の前では、赤ちゃん返りをして、「おしめを替えてくれ」と幼児プレーをするのが趣味であるなどという例は、決して珍しくない。誰もが、自分の中のある複合アイデンティティーを上手に飼い慣らしながら生きているのである。
この小説の主人公である星新一は、七つの人格を持っている。ちなみに琉球語で魂をマブイという。沖縄人は、マブイを7つ持っていると考える。事故に遭遇するとか、精神的に大きなショックを受けることがあると、マブイをいくつか落としてしまうことがある。マブイを落としてしまった人間は、注意力が散漫になったり、元気がなくなったりする。そのときは「マブイ込め」という儀式を行い、完全な魂を取り戻す。私は、母が沖縄人なので、私は沖縄人と日本人の複合アイデンティティーを持つ。過去数年、沖縄の米軍基地をめぐる問題で日本の中央政府と沖縄の関係が緊張している。その過程で私のアイデンティティーは日本人から沖縄人にシフトしている。そうなると7つのマブイの働きを皮膚感覚で感じるようになる。7つのマブイを持ちながら、いくつかのジャンルで、それぞれのマブイに対応した作家活動を行っているのである。星新一のような生き方は、沖縄人の中ではそれほど珍しいことではないと思う。
星新一が小学校3年生、9歳だったときのある平日の午後、事件が起きる。学校から帰宅し、自宅で宿題をしていると、新一は父からの電話で渋谷に呼び出される。父からは、クローゼットの喪服のポケットに入っている鍵を持ってきて欲しいと依頼される。父親は感謝し、新一が寿司を食べたいと言うので、道玄坂の鮨屋に連れて行き、カウンターでお好み鮨を食べさせる。途中、「パパはおまえが届けてくれた鍵を友達に渡さないといけないので、ちょっと出かけてくるよ、三十分くらいしたら戻ってくるから、ゆっくり食べてなさい。いいね」と言って、父は中座する。そのまま父は失踪してしまう。
残された母の周囲には謎の人々が接近してくる。この作品にはミステリー小説の要素もあるので、種明かしを極力避けつつ書評を続けたい。新一は、父の友人で精神科医の宗猛を通じて、父が日本企業の秘密を中国に流してカネを得ていたスパイだったということを知る。そして宗猛もスパイ網の一員であることが明かされる。さらに宗猛の指導により、新一は7つの人格を巧みに操ることができる技法を身につける。新一は、外交官になる。
外務省を舞台にした小説は、細部をどう描いているかでリアリティが大きく異なってくる。この小説にはリアリティがある。それは新一を人事院が行う国家公務員総合職試験に合格し、官庁訪問と面接で外務省が採用したキャリア外交官ではなく、外務省が独自に行う外務省専門職員採用試験に合格した専門職の外交官に設定しているからだ。キャリア職員は2~3年で異動するのに対し、専門職員ならば任国に長期滞在し、語学、地域事情ともに高度な知識を身につけることができるからだ。私もこの試験を受けたことがあるが、かなり特殊な内容の試験だった。『虚人の星』にこの試験の内容が書かれているが、正確だ。島田氏がこの試験の合格者に取材するか、合格体験記を読んで調査していなくては、このような正確な記述はできない。また、総理が密かにプライベートな時間を作る技法についても、事情をかなりよく知る人から取材しないとわからない。こういう細部をめぐるていねいな準備が、この作品の完成度を高めている。
北京の日本大使館で中国専門家として業績をあげた新一は、総理官邸の傘下にある国家安全局の職員に抜擢される。そして、40代で総理になった松平の秘書官になる。松平も解離性人格に近い複合アイデンティティーを持つ。いずれにせよ中国のスパイ網が総理周辺に張り巡らされ、日本は危機的状況に陥る。そして、新一の父についての真実、新一と松平の関係などについて、どんでん返しが起きる。
この小説の最後で、松平は、チャーリー・チャップリンの映画「独裁者」の末尾を彷彿させるような演説を行う。<総理大臣は国家の陰謀を進める主体ではありません。同盟国アメリカに利益を誘導したり、国内の特定思想団体の理想を実現することも本来の職務ではありません。(中略)私は真に平和を希求する立場から、次のような提案をしたいと考えています。/アジア太平洋戦争を二度と繰り返さないためにも、歴代政権が踏襲してきた戦後五十年談話を私も踏襲します。かつて植民地支配と侵略によって、アジア、太平洋諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えた事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省の意を表すると同時に、自国中心の歴史認識を改め、アジア諸国共通の歴史観を構築する努力をします>。島田氏は、松平の口を借りて、現下の日本政治に対する想いを告げている。今年一押しの面白い小説だ。是非手にとって欲しい。
――「群像」2015年11月号