【本屋大賞ノミネート】就活連敗中の理系大学生がコンビニのベトナム人店員の秘密を知って…傷ついた人の心を癒す処方箋のような優しい短編集

文芸・カルチャー

公開日:2021/2/6

八月の銀の雪
『八月の銀の雪』(伊与原新/新潮社)

 人生とは、こんなにもままならないものなのか。年を重ねるごとにそんな思いが募っていく。周りの人はどうしてみんな幸せそうなのだろう。どうして自分ばかりが何をしてもうまくいかないのだろう。…もし、あなたがそんな風に思い悩んでいるのだとしたら、ぜひとも読んでみてほしい本がある。その本とは、『八月の銀の雪』(伊与原新/新潮社)。第164回直木賞候補作であり、2021年本屋大賞にもノミネートされた話題の短編集だ。

 作者の伊与原新氏は、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星物理学を専攻し、博士課程を修了したという人物。この作品にも、自然科学の知見が巧みに織りこまれ、それが物語をやさしく照らし出している。自然や生物には、こんなにも人間らしい姿があるのか。人生に行き詰まりを感じる人々が、今まで知らなかった科学知識と出会い、それに自分自身を重ね合わせることで癒されていく。そんな瞬間をみていると、読者も心に希望の灯りをともされたような気持ちになる。明るさを取り戻していく登場人物たちの姿に、私たちも前を向く元気をもらえるのだ。

 子育てに自信をもてないシングルマザーが博物館勤めの女性に深海と鯨の話を聞く「海へ還る日」。不動産会社の社員が伝書バトの飼い主を探すことになる「アルノーと檸檬」。珪藻という生物を愛する不思議な男との対話を描く「玻璃を拾う」。原子力発電所の下請け会社を辞めた男と、茨城の海岸で凧揚げをする初老の男の姿を描いた「十万年の西風」…。この本で描かれるのは、たくさんの出会いだ。思いがけなくもたらされた知識が、居場所を失った人たちの人生と交差する時、そこには意外な化学反応が生じていく。

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 たとえば、表題作「八月の銀の雪」では、就活連敗中の理系大学生・堀川と、彼の家の近所のコンビニのベトナム人店員・グエンとの交流が描かれる。コンビニでの業務に不慣れで無愛想なグエンに客としていつも苛立ちを感じていた堀川。だが、堀川がある論文の一部を見つけたのをきっかけに、グエンの隠された秘密を知ることになる。キーワードは「地球の内核」。思いがけない話の展開に誰だって惹き込まれることだろう。そして、仕事中は無愛想なグエンが生き生きと語り始める自然科学の知識はなんてロマンチックなことか。地球の内核に降るという雪。その雪が、先行きの見えない日々を過ごす堀川の心に白く優しく降り積もっていく。

 知識とは、人を豊かにし、勇気づけてくれるものなのだろう。もっと知らないことを知りたい。もっと、自然のことを、地球のことを、世界のことを知りたい。知り尽くしたい。この本を読むと、日々の生活で失われかけていた好奇心や行動力がぐんぐん蘇っていくような気がする。この本は、心をのびのびとさせてくれる1冊。疲れきった人にこそ手にとってほしい処方箋のような作品だ。

文=アサトーミナミ