優秀な人材を集めて大きく動かす! 栄一の起業家としての芽/渋沢栄一の人生秘録④
更新日:2021/2/11
「幕末の志士」から「日本資本主義の父」へ。誰も知らなかった渋沢栄一の素顔を直木賞作家の中村彰彦が解明する。歴史秘録の決定版『むさぼらなかった男 渋沢栄一「士魂商才」の人生秘録』。第一章「幕末の志士になる! 英才教育と士分に憧れた少年時代の決意」の1話から7話までを公開します。
第4話 調和型から破滅型へ
ここで一度話題を変えて明治から昭和に至る日本文壇史を眺めると、特に私小説作家たちははっきりと二派にわかれていた。ひとつは「破滅型」といわれたグループで、これは葛西善蔵、嘉村礒多(かむらいそた)など今日はほとんど読まれなくなった作家たちや、今も人気のある太宰治や石川啄木など、破れかぶれの人生を送って道半ばにして斃(たお)れた者たちのこと。もうひとつは「調和型」といわれたグループで、こちらを代表する志賀直哉や尾崎一雄らは、実生活上の苦悩に耐え、心身の危機を克服するべく創作活動に精進した。
この破滅型か調和型かという分類法を、幕末の思潮に当てはめるとどうなるか。
平和裡に鎖国政策を捨てて欧米列強との開国通商に転じた幕府は、もちろん調和型。「異人斬り」を働いてまでして再鎖国を主張し、ついには大老井伊直弼を襲ってみずからも死んでいった者たちを代表とする尊攘激派は、破滅型に見立てられる。
一族の渋沢成一郎が一足早く江戸をめざしたと知り、栄一が負けじと江戸へ走って尊攘激派と交わったならば、その行手には滅亡の淵が大きく顎(あぎと)をひらいていたことであろう。
それを念頭に置いて『雨夜譚』を読んでゆくと、栄一は文久元年(1861)に江戸へ出た前後のことを下のように回想している。
「自分もついに二十二の年(文久元年=原注)に、内心ではこのまま田舎に百姓をして居ることは成し得られぬ、という覚悟をしました。その頃、(尾高)長七郎が下谷練塀小路(したやねりべいこうじ)の海保という儒者の塾に居て、ソウシテ剣術遣いの所へ通って居たから、それを便り(頼り)に、ドウカ自分も江戸へ出たいと(父に)いった。ところがその時には父がよほどやかましく小言をいって、今この商売を打捨てて、書物を読むために家の事を粗略にしては困る、ソウいう量見(了見)ではまだ安神(安心)が出来ぬという意味で、大いに教誡しられたけれども、自分においては、永く江戸に居るつもりはない、ただ春先キ農業の閑暇に少しは本も読みたいという考えであるといって(略)とうとう父の許しを受けたから、二タ月(2ヵ月)余りも江戸に出て、海保章之助という儒者の塾に這は入いって居った」
一般に尊攘激派は、主君、上役、父親などの意見は一切無視し、脱藩ないし脱走という手法によって江戸や横浜に潜入しては異人斬りの機会をうかがった。
長州藩の高杉晋作、土佐藩郷士坂本龍馬らがこのようなタイプに属したのに対し、渋沢栄一の場合は、父親と決裂することなく許可を取りつけて江戸へ出府した、という点がユニークである。栄一はもともと調和型の人間なので、尊攘激派たらんとしても、父に後足で砂をかけるようなことはできないのだ。
それでも22歳の栄一の志は、調和型から破滅型へ大きく振れようとしていた。それをよく示すのは、儒学とともに剣術も修めようとした栄一が、尾高長七郎の師の伊庭軍兵衛の道場ではなく、渋沢成一郎のいる神田お玉が池の北辰一刀流の玄武館に入門した事実である。
下谷御徒町にある心形刀流伊庭道場の当主は伊庭軍兵衛秀俊という幕臣であり、安政3年(1856)3月以降は講武所の剣術教授をつとめていた。
同年に幕府が開設した講武所は、いうなれば国立の総合武道場だから、その剣術教授に指名されたとは幕府から一流の剣士と認められたことを意味する。同時に、思想傾向としては尊王攘夷派ではなく佐幕派であったということも示している。
対して千葉周作が創出した北辰一刀流の剣術は、その子孫と弟が道統を継いでお玉が池と桶町に道場を経営。北辰一刀流四天王のひとりといわれた森要蔵は麻布永坂に、同流の伊東大蔵はやはり深川佐賀町に道場を構えて栄えていた。
そしてこの流派の特徴は、西国筋の諸藩から文武修業のために江戸へ国内留学してきた若者たちにひろく門戸を開いている点にあった。これは別の角度から見ると、北辰一刀流は道場主たちが商売上手なため繁栄していた、ともいえる。
江戸へ出府してきた若者たちは、藩庁から留学期間を2年と限定されているケースが多かった。それを見越して北辰一刀流の道場は、その修業期間が切れるころまでには免許皆伝の免状を発行してやる。
そのため同流は留学生たちに人気があったのだが、その原因は千葉周作が水戸藩主・徳川斉昭に気に入られ、天保14年(1843)から安政2年(1855)に逝去するまで水戸藩士となっていたことにある。その間、西国筋の雄藩――薩摩藩・熊本藩・長州藩・土佐藩などにも尊攘激派は育ちつつあった。おのずと北辰一刀流の道場に尊攘派の門人が増加したことは、坂本龍馬が桶町の千葉定吉(周作の弟)の道場に、やはり土佐藩出身で戊辰戦争に活躍する川久保文二が森要蔵道場に学んだこと、のち甲子太郎と名を改めて門人七人とともに新選組に加わる伊東大蔵がその新選組を尊攘派に改変しようとしてしくじり、返り討ちに遭ったことなどから充分に察せられよう。
すなわち渋沢栄一と成一郎が心形刀流伊庭道場ではなく北辰一刀流玄武館に入門したこと自体が、ふたりの尊攘激派への親近感をよく示した選択なのである。
栄一は、「読書・撃剣などを修行する人の中には、自然とよい人物があるものだから、抜群の人々を撰んでついに己れの友達にして、ソウシテ何か事ある時に、その用に充るために今日から用意して置かんければならぬ」(『雨夜譚』)と考えて将来を見据えていた。
異人斬りといった単独犯行に走るのではなく「抜群の人々」を集めてさらに大きく動く、と発想したところに、われわれはのちの大起業家の芽を感じ取るべきなのかもしれない。
ところが文久元年(1861)5月28日深夜、水戸脱藩14人の尊攘激派高輪東禅寺に置かれていたイギリス公使館に侵入。幕府派遣の警備兵3人を殺害し、17人を負傷させるという大事件を起こした。いわゆる「第一次東禅寺事件」。
すると次には、今度狙われるのは一年前に「桜田門外の変」で殺害された井伊直弼同様の強権政治をおこなっている老中首座安藤信正(磐城平藩主)だ、との噂が流れた。
これを受けて、負けじと一騒動企んだのは尾高長七郎。長七郎は長州藩の多賀谷勇という尊攘激派と語らい、上野寛永寺の「上野の宮様」こと輪王寺宮公現法親王を奉じて日光山に挙兵し、幕府の国策を開国通商から尊王攘夷に導くことを夢見たのである。
しかし、攘夷戦をおこなうべく挙兵するには同志多数をかき集めねばならない。関東の尊攘激派の総本山は水戸藩だから、水戸に同志を募ろう。そう考えて長七郎と多賀谷勇は水戸へ走り、明敏さをもって知られた藩士・原市之進に協力を求めたものの断られてしまった。そこでふたりは下野の宇都宮城下に尊王攘夷論者として名のある大橋訥庵を訪ねることにし、11月8日夜、首尾よく訥庵と会見することができた。
ところがその夜、訥庵邸には安藤信正襲撃を考えている水戸や宇都宮の尊攘激派が集まって来て、話はもっぱらこの襲撃計画のことになってしまう。これでは日光山挙兵など夢のまた夢だ、と悟ったふたりは江戸を経て手計村に帰郷し、やはり江戸から帰ってきていた尾高新五郎と渋沢栄一に安藤信正襲撃計画が進行中であることを打ちあけた。
このことを幸田露伴『渋沢栄一伝』が「相談した」と表現しているのは、長七郎と多賀谷勇は栄一と新五郎が賛成するなら襲撃グループに参加しても構わないと考えていた、というニュアンスである。だが、栄一は尊攘激派寄りの志を育みつつあるとはいえ、根っからの破滅型ではない。新五郎とともに襲撃参加を否としたため、訥庵の家での密議に参加した長七郎は念のため上州佐位郡(さいごおり)の国領村に身を隠すことにした。
問題の人物、老中首座の安藤信正は、あけて文久2年(1862)1月15日の朝五ツ時(午前8時)、江戸城西の丸下の役宅を出、登城するため桔梗門外から坂下門へむかった。
すると、どこからか銃声一発。供侍のひとり松本錬次郎が倒れ、2発目はむなしく斎藤勇之助の胸許をかすめた。坂下門外の変の発生であった。
長七郎たちと訥庵邸で顔を合わせた尊攘激派七人のうち六人が、烈士として歴史に名を残すべく斬りこんだのである。しかし、信正の乗物を守る供侍は、磐城平藩の家中から選抜された剣の達人ばかり。六人の刺客はことごとく血の海に沈み、襲撃は大失敗におわった。その3日前の1月12日には大橋訥庵も幕吏に捕らわれていたのだが、栄一はそうとはとんと知らずに坂下門外の変発生の報に接したのである。
それにしても、事ここに至っては幕吏が長七郎の行動をも把握し、その行方を追いはじめていることもあり得ぬではない。栄一は長七郎の身を案じるあまり、国領村へ出向いた。
ところがこのとき、何も知らない長七郎は江戸の同志たちと次の行動を考えるため出府しようとして4里(約16キロメートル)先の熊谷まで移動していた。その熊谷で追いついた栄一は、次のように助言した。
「江戸へ出るというは余りに無謀な話で、自ら死地に就くも同様だによって、ここから方向を換えて、一刻も早く信州路から京都を志してしばらく嫌疑を避けるのが上分別であろう」(『雨夜譚』)
長七郎はこの助言を受け入れ、信州佐久郡に2ヵ月潜伏したあと京へおもむいた。
栄一が長七郎に上京してはどうかと提案したのは、自分が尊攘激派の集まりつつある京の情勢を知りたかったためでもある。そして、いよいよ栄一は、みずからも尾高新五郎や渋沢成一郎とともに攘夷のための挙兵に踏み切ろうと考えはじめたのであった。
(初出:経営プロ)