農民から武士ってそんなに簡単になれるもの?/渋沢栄一の人生秘録⑥
公開日:2021/2/13
「幕末の志士」から「日本資本主義の父」へ。誰も知らなかった渋沢栄一の素顔を直木賞作家の中村彰彦が解明する。歴史秘録の決定版『むさぼらなかった男 渋沢栄一「士魂商才」の人生秘録』。第一章「幕末の志士になる! 英才教育と士分に憧れた少年時代の決意」の1話から7話までを公開します。
第6話 農民から武士へ
渋沢栄一は名主の父市郎右衛門とは別々の人生を歩むことにしたため、農民なのか浪人なのかはっきりしない存在と化してしまった。しかも挙兵計画を立てて武器を買い集めていたことは、すでに関八州取締など幕吏の耳に入っているかもしれない。そう考えてしばらく身を隠すことにした栄一は、渋沢成一郎とともに文久3年(1863)11月8日に血洗島を出立。江戸へ出府してから、14日には東海道に道を取って京をめざした。
なぜ栄一たちが京にゆく気になったかというと、「将軍後見職」として京に赴任中の一橋慶喜が幕臣出身の平岡円四郎(ひらおかえんしろう)を一橋家用人に登用しており、栄一たちはその平岡と交流があったためである。互いに知り合ったのは栄一や成一郎が江戸に留学して文武修業に励んでいた頃で、平岡はふたりにこう提案したこともあった。
「(足下(そつか)らには)実に国家のために力を尽すという精神が見えるが、残念な事には身分が農民では仕方ない、幸に一橋家には仕官の途(みち)もあろうと思うし、また拙者も心配してやろうから直に仕官してはどうだ」(『雨夜譚(あまよがたり)』)
その頃の栄一たちはいずれ尊攘激派の志士として立つつもりでいたので、この話には飛びつかなかった。しかし、今回、浪人として京にむかうとすると、旅の途中で幕吏に行動を怪しまれる恐れがある。そこでふたりはまだ江戸にいるうちに平岡の留守宅を訪ね、妻女にこれまでの事情を伝えてから申し入れた。
「京都へゆくために当家の御家来のつもりにして先触(さきぶれ)を出すからこの事を許可して下さい」(同)
ここにいう「先触」とは、大名旗本の家臣などが旅に出る時、先々の宿場へ人馬の継ぎ立てや宿の手配を依頼しておく文書のこと。ふたりはちゃっかりと、平岡家の家臣を装えば無事に旅をつづけられると踏んだのである。すると妻女は、僥倖(ぎようこう)にもこう応じてくれた。
「かねて円四郎の申付(もうしつけ)には乃公(おれ)が留守に両人(栄一と成一郎)が来て家来にしてもらいたいといったら許してもよいということであったから、その儀ならば差支(さしつか)えない、承知した」(同)
このやりとりによってふたりは「平岡家家臣」と称することを許され、11月25日に無事着京することができた。平岡円四郎を訪ね、挨拶したのはいうまでもない。以後ふたりは、栄一が父からもらった100両を小出しにしながら名所旧蹟を見物してまわった。
ところが、あけて文久4年(1864)が「元治(げんじ)」と改元される直前の2月初旬のこと。故郷で剣を教えているはずの尾高長七郎から届いた手紙を見ると、なんとそれは江戸の伝馬町の牢獄から出されていた。どのような事情かはわからなかったが、長七郎は中村三平ほかと江戸へ出る途中に捕縛され、栄一が着京後に出した手紙も取り上げられてしまったのだという。
栄一はその長七郎宛の手紙で、
「かねて見込んだ通り幕府は攘夷鎖港の談判のために潰れるに違いない、我々が国家のために力を尽すのはこの秋(とき)であるから、それには京都へ来て居る方が好かろう」(同)
と、まだ尊攘激派の尻尾を引きずったことを申し入れていた。獄ごくり吏にそのことを知られたということは、いつ幕吏に踏みこまれるか知れたものではない、ということでもある。
渋沢栄一と成一郎が眠れぬ夜を明かすと、平岡円四郎が手紙ですぐに来いと伝えてきた。これは幕府から一橋家にふたりの来歴について問い合わせがあり、平岡が尋問役に指名されたのである。栄一は平岡に恩義を感じていたためだろう、会うと正直に挙兵計画を立てたことを告白し、
「足下らはマサカに人を殺して人の財物を取ったことなどはあるまいが、もしあったならあったといってくれ」(同)
「イヤそれは決してござりませぬ。なるほど殺そうと思ったことはたびたびござりました」(同)
などというやりとりをした。
幕末は、幕府の権威の失墜とともに「士農工商」という身分の枠が次第に崩れてきた時代であった。すでに名前の出た尊攘激派でいえば、清河八郎は庄内藩の酒造業者(郷士)のせがれ、吉村虎太郎は土佐の庄屋である。
また、水戸藩士藤田東湖の父幽谷(ゆうこく)は農民の出で、水戸に出て古着屋を営んでいた。東湖は早熟の秀才だったので15歳にして士分に採り立てられたものの、父の職業をさげすまれ、「古着屋のせがれ」と悪口をいわれたこともあった。
さらにいえば、やはり庄屋のせがれである近藤勇や土方歳三はすでに上京して会津藩お預かりの新選組に属していたが、その初代局長芹沢鴨(せりざわかも)も本名は木村継次(きむらけいじ)といい、常陸国行方郡(ひたちのくになめかたごおり)の豪農のせがれ。江戸の市中見廻りを担当する庄内藩お預かりの新徴組(しんちようぐみ)には、甲州の元やくざ祐天仙之助(ゆうてんせんのすけ)とその子分たちまで採用されていた。
そういう大状況があったことを考えあわせれば、平岡円四郎が渋沢栄一と成一郎に一橋家への出仕を勧めたのもさほど奇怪な発想ではなかったことになる。
ふたりは実際に「第二の天誅組の変」を起こしたわけではないから、これにて尋問終了である。とはいえ、一度は生死をともにしようとした長七郎らが捕縛されては今さら帰郷もできないし、進退きわまるとはこのことである。その思いを伝えると、平岡は驚くべき提案をした。
「なるほどそうであろう、察し入る。ついてはこのさい足下らは志を変じ節を屈して、一橋の家来になってはどうだ。(略)かくいう拙者も小身(しようしん)ながら幕府の人、近頃一橋家へ付けられたような訳であるから、人を抱えるの、浪士を雇うということはずいぶんむつかしい話だけれども、もし足下らが当家へ仕官しようと思うならば、平生の志が面白いから拙者は十分に心配して見ようと思うがどうだ」(同)
農民出の浪人として明日をも知れない身の上のふたりに、にわかに一橋家家臣という「士分」に登用される途が提示されたのである。……と解説するだけでは、「武士ってそんなに簡単になれるものなんですか?」という声が聞こえてきそうなので、もう少し詳しく述べよう。
いったん宿へもどってこの誘いを受けるかどうかを検討する段になると、渋沢栄一よりも剛情な成一郎は江戸へ帰って尾高長七郎たちを助け出さねば、と主張した。対して栄一は、そんなことができるはずはないし、我々が一橋家へ仕官すれば一時挙兵を計画していたことへの嫌疑も消え、長七郎たちを救い出す方便も生まれるという一挙両得の策になるかもしれない、と説いて成一郎に仕官を承諾させることに成功した。
こうして栄一と成一郎は尊攘激派から完全に離脱し、公武合体派のリーダーのひとりとして大政に関与している一橋慶喜の家士(かし)として生きることになったのであった。
なお、尾高長七郎が投獄されたのは旅の途中で精神を病み、人を斬ってしまったことによる。長七郎はのちに兄新五郎の努力で出獄できたが、病癒えぬまま32歳で生涯を閉じた。
栄一に挙兵の無謀さを説いて目を醒まさせた者が、志を果たすことなく夭折してしまう。まことに「吉凶はあざなえる縄のごとし」である。
(初出:経営プロ)