この金どうしたもんかね/オズワルド伊藤の『一旦書かせて頂きます』⑨
公開日:2021/2/26
今この瞬間までの人生において、触れてこなかったもの、見てこなかったもの、出会うことのなかったものってのは山ほどある。
例えばそれは、アフリカの奥地に住む民族にとってのTVであったり、子供にとってのウニであったり、野良犬にとってのペディグリーチャムであったり。
それらを初めて手にした時、最も早く脳を揺らす感情は喜びや驚きではない。
喜怒哀楽という感情選抜を横目に、颯爽と一番乗りを果たすのは、「戸惑い」ではないだろうか。
だって、それがなにかがまるでピンときてねえんだもん。
アフリカのTVも、子供のウニも、野良犬のペディグリーチャムも、各自にとっては得体が知れないのである。どう使えばいいのか、食っちゃっていいのか、まずこれ食いもんなのか。
どんな状況であれ、突然今までの生活になかったものが現れた時、人も犬もあらゆる生き物も、それについて首をかしげることから徐々に脳や体に馴染ませていくものなのだ。
今の僕にとっても、僕にとってのそれがある。
「お金」である。
もちろん物々交換で生きてきたわけでもないし、自給自足なんて屁こいちゃうし、ましてやカードのみで生きてきたから三井住友カードのCM決まったわけでもない。
言い換えるならば、「まともなお金」を、やっとやっと最近になって頂けるようになったということである。
このまともなお金を目にするまでに芸人が費やす時間は、一般の方の年数とは比べものにならない。中には、1年目から飯が食えるようになるスターも存在するが、我々でいうところのそのタイミングは芸歴9年目であった。
芸人になったのは22の時。その前は大学生で高校生で中学生で小学生。
人間がこの国で生きていけると判断出来るまともな金額を頂いたのが31のこと。
そんなもん戸惑いしかなかったのである。
持論ではあるが、人間なんてのは、10万なら10万の生活するし、100万なら100万の生活をすると思っていた。
現に1カ月10万以下の暮らしを何年も続けてこれていたし、このお金がある程度上がっても、全体的な水準が上がるだけで、戸惑いなんて感情に辿り着くとは夢にも思わなかった。
が、約30年もの間、まともなお金を目の前にする生活と無縁の場所にいると、低い基準に慣れすぎて浮いたお金を、一体全体なにに使ったらいいのかさっぱりわからなくなるのだ。本当に、絵に描いたようなバカのお金の使い方しか思い浮かばないのである。
例えば、昨年のラフターナイトという大会で優勝させて頂いた際の賞金50万円は、その日のうちにみんなで焼き肉食べてなくなっちゃったし、CMで入ったお金も、めちゃくちゃタクシー乗るとか、めちゃくちゃ服を買うとか。
そしてその行為からなにが戸惑いに繋がるって、今までの生活に慣れすぎてお金を使う度につきまとう、少しばかりの罪悪感である。
えっなになにこれってまじで使っていいの?
これがこびりついているのだ。貧乏人の性である。
そのくせ、今までは口座がプラマイ0もしくはマイナスで月末を迎えていた為、なんとなく無意識に残高0に向かって爆進してしまう傾向がある。
使うことへの罪悪感と残ることへの違和感の板挟みにあい、はっきりとした戸惑いを感じてテンテコマイになるのだ。
更にこのまともなお金という存在には、他の「初めて」には備わっていないある重大な要素がある。
それは、まだまだ全然増える可能性があるという点。
「まともなお金」から「普通に生きてたらもらえないお金」へと進化する可能性があるのである。
そうなった時、無論そこを目指してはいるのだが、その時は戸惑いなんてもんじゃない。多分慣れるまで、なんかずっとちょっと怖い気がする。
狙われたりするんじゃないかとか思っちゃう気がする。もう訳わかんなくなって、全然いらない光る靴とか買っちゃう気がする。光るし携帯とか充電出来る機能ついてる靴とか買っちゃう気がする。そんなもんなかったら技術者に作ってもらうように頼んだりしちゃう気がする。
想像するだけで恐ろしいが、手にしたことのない大金を手に入れた時、自分がどのような状態になるのかは、現段階で明確に予想することは出来ない。
しかしながら、だからこそ、自分が有り余る大金を手に入れた時、諸々の恩返しを済まし、物欲を満たしたその後に、果たしてどのような意味を持つお金の使い方をするのか、僕は楽しみでならないのである。
一旦辞めさせて頂きます。
オズワルド 伊藤俊介(いとうしゅんすけ)
1989年生まれ。千葉県出身。2014年11月、畠中悠とオズワルドを結成。M-1グランプリ2019、2020、2021ファイナリスト。