格差はお金だけじゃなかった! この世はライフスタイルの差異を競いあう闘争だ

社会

公開日:2021/2/28

ブルデュー『ディスタンクシオン』講義
『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』(石井洋二郎/藤原書店)

「格差」という言葉を嫌というほど聞くようになった。社会にはものすごくお金持ちの人と貧しい人がいて、その差が大きければ大きいほど「格差がある社会」つまりは「格差社会」ということになる。この「格差」だが、お金のあるなしだけではなく、文化、学歴、慣習行動、趣味についても言い得る言葉だと知ったのは最近のこと。NHK「100分de名著」でブルデューの著書『ディスタンクシオン』を扱っていたのがきっかけだ。とはいえ、いきなり『ディスタンクシオン』の邦訳本3巻読破の自信はないので、『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』(石井洋二郎/藤原書店)を手に取った。

 ブルデューはフランスの社会学者で、社会を格差によって立体的に説明しようという『ディスタンクシオン』の初版が出たのは1979年。現在と照らし合わせると、ブルデューの観察対象である人々が、既に時代遅れに感じるところもないではない。また、フランスと日本の違いもある。しかし、それでも社会構造を説明する論としては今も響くし、個人的には自分がどのような価値観のもとに育ったのかを知るのにもうってつけだった。

 わかりやすいところからいくと、学歴の差だ。これは説明なしでもわかる。文化の差というのも、まあわかる。美術館に行って楽しいと思えるか、クラシック音楽を聴いて快いか、といった知識と、それを感じる感覚が身についているかといったところだろう。

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 では、慣習行動の差とは何だろう。結論からいうと、これは日本でいう「育ち」に近い。いわゆる、生まれた場所、家庭環境、両親の学歴と職業、しつけといった事柄だ。例えば、Aさん〈都心生まれ、両親とも一流大学卒、父は商社勤め、母は専業主婦、中学校から私立に通う〉と、Bさん〈郊外生まれ、母子家庭、母はパート勤め、中高とも公立に通う〉を比べると、Aさんの方が「育ちが良い」となる。あくまで、表面的な情報からだけの意地の悪い判定で、人間の価値そのものを比較するものではないが。ブルデューはさらに、社会には人の無意識的な立ち居振る舞いすべてに差があり、話し方に言語感覚、休みの日の過ごし方まで、日常生活の一挙一動に格差があるという。確かに、認めるのは悔しい「育ち」が体に染み付いているというのはわかる気がする。公立中学からいきなり中高一貫の私立高校に入ったり、地方の公立高校から東京の大学に入ったりと、自分の属する集団が一気に変わったときに感じるあの拒絶感だ。

 そして驚くのは、趣味の差だ。音楽ではポップスよりクラシックの方が上位にあり、映画ではメジャーなハリウッドアクションより単館上映のヨーロッパ映画の方が上位にある。何を好んで食べるか、外食はどの店に行くか、すべての嗜好と趣味は格付けされ得るという。これらを総じて表すのにブルデューは「文化資本の差」という言葉を使っている。さらに、社会の構造は、お金の多寡を横軸、文化資本の差の大小を縦軸に引いた、1枚の図で表せるとしている。

 フランスの場合、どちらの軸でも上位にあるのは(つまり図の右上にいる)のは古くから続く貴族だ。このあたりは、日本では体感として理解し難いし、趣味の格付けも時代によってその判定基準が変動するので異論もあろう。例えば、ゲーム、アニメの地位はこの10年で格段に上がり、ギャンブルの地位は低下しているといったように。とはいえ、格差は生活すべてにおいて言い得るということは、社会を俯瞰で見る鋭い指摘だ。

 個人史を振り返るなら、中学高校時代、親が「勉強して高い偏差値の学校に入って、一流企業に入れ」と仕向けてきたのには、社会階層のランクアップを狙っていたということがわかる。結果は残念でしたねと言うほかないが、たとえ成功していたとしても、親の文化資産は子に受け継がれてしまうので、まずは親自身が未知の文化に触れ学んでいかねば、階層ランク上げは駄目だったのだ。社会マップを「文化資本の差」として見られることを知るとともに、親よ、自分の欲のために子を使うべからず、という思いを強めてしまった。

文=奥みんす