家康の迫力、秀吉のオーラ、そして信長の狂気…龍馬は偉人たちのやりとりに興奮/ビジネス小説 もしも徳川家康が総理大臣になったら③
公開日:2021/3/28
2020年。新型コロナの初期対応を誤った日本の首相官邸でクラスターが発生。混乱の極みに陥った日本で、政府はAIで偉人を復活させて最強内閣を作る計画を実行する。徳川家康が総理大臣、坂本龍馬が官房長官になるなど、時代を超えたオールスターで結成された内閣は日本を救えるのか!?
「そもそもじゃが、外に出なければ病がうつらぬというのはわかるが、それでこの病が収まるというのかの?」
秀吉が家康に問いかけた。
徳川内閣初の閣僚会議。冒頭で木村幹事長の想いを聞き、〝コロナを収束させ、国民の信頼を取り戻す〟というミッションを果たすために偉人たちは早速、議題である緊急事態宣言を出すかいなかについて話し合っていた。
しかし、なんといっても驚くべきは秀吉の声量である。龍馬も声が大きいことで知られていたが、その龍馬も驚くほどである。そして、その声はネズミの顔とは似つかわしくなく、聞く人を一気に奮い立たせるような底抜けの明るさがある。
この男はこの声で天下を取ったのではないか。龍馬は『太閤記〈2〉 』でしか読んだことのない大英雄を目の当たりにして、持ち前の好奇心が溢れ出すのをおさえきれなかった。龍馬自身〝人たらし〟と言われたものだが、この小男の全身から発せられる人たらしのオーラはスケールが違った。
「綱吉。どうじゃ?」
家康は、丁寧に秀吉に頭を下げると、視線を秀吉に劣らぬほどの小男に向けた。
その男は、厚生労働大臣に抜擢された江戸幕府の第5代将軍徳川綱吉である。
徳川綱吉(江戸時代中期) 数々の政治改革を断行し元禄文化を代表する空前の好景気をもたらした、徳川15代将軍の中でもひときわ目立つ存在。在任期間の後半は度重なる天災と、後世にまで悪評を轟かした「生類憐れみの令」により、彼の評価は地に堕ちたが、綱吉の時代に、日本は戦国の荒々しさから、世界でも有数の成熟した安定国家になったことは紛れもない事実である。
綱吉は、ひどく神経質な表情をもった男で、戦国大名として戦い抜いた初代将軍家康に比べると、色白でひ弱な印象を与える。しかしながら、その眼光の鋭さはこの男の持つ意志の強さを表している。家康以外では、この綱吉と農林水産大臣に抜擢された第8代徳川吉宗のふたりだけが歴代徳川将軍の中から入閣している。
「大権現〈3〉さま。医術に詳しい緒方洪庵という者を呼んでおるので、その者からお話しさせていただきまする」
綱吉は、神格化された偉大な先祖を見て、まさに神を崇めるように深々と頭を下げた。
「大権現とは徳川殿も偉いものじゃのー」
秀吉が大声をあげる。
他の者がこういう言葉を吐けば、嫌みに聞こえるものだが、秀吉から発せられると本当に感心しているように聞こえるのだから不思議なものだ。しかし、家康が秀吉の天下を奪ったのは事実であり、その結果、家康は子孫たちに神と崇められているのだから、これ以上の嫌みはないといえばないであろう。
この秀吉にどう家康が反応するのか、龍馬は好奇心丸出しで観察した。
家康は茶色の瞳をまっすぐに綱吉に向けたまま、
「よかろう。洪庵に発言させよ」
まるで秀吉の発言などなかったかのように表情ひとつ変えず、綱吉に命じた。
龍馬はその家康の胆力にもまた、舌を巻く想いであった。幕末に西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎など、幾人もの英傑たちと会ったが、家康の面の皮の厚さというものは、次元の違う迫力があった。まるで岩のようなずっしりとした威圧感がある。幕末、黙り込めばその威圧感比類なしと言われた西郷と比べても家康の威圧感は、小山と富士山ぐらいの違いがある。
一方、無視される形になった秀吉の方も自分の言葉などなかったかのようにケロリとしている。家康と秀吉のやりとりはなんということのない会話の中に、まるで一流剣士同士の果し合いのような緊張感があり、龍馬は、自分の中の血が興奮で沸き立つような感覚をおぼえた。
龍馬が家康と秀吉のふたりに意識をとられている間に、総髪〈4〉の中年の男が部屋に入ってきた。
幕末の天才医学者、緒方洪庵である。
緒方洪庵(江戸時代後期)医者であると同時に蘭学者であり、教育者でもある。大坂で後に大阪大学となる「適塾」を開き、この塾から福沢諭吉など時代をリードする人材を多数輩出した。〝近代医学の祖〟と言われた人物。
「この者。病に関しては尋常ならざる知見を持っているものでござりまする。まずはこの者の話を聞いていただきたい」
綱吉は閣僚に対し、洪庵を紹介した。
洪庵の怜悧な頭脳にはAIにより、伝染病に関するありとあらゆる知識が送り込まれている。さらに洪庵はこの閣議に先駆けて、感染症対策の有識者メンバーとも会合していた。
「まずは、財務大臣のご質問にお答えいたしまする」
洪庵は秀吉に向いて一礼をした。
「収まるかといえば収まりませぬ。ただ病になる者は減らせまする」
「病になる者が減ったところで、収まらな意味はにゃーではにゃーかの。ずっと屋敷に引きこもっとれば皆、餓え死にするに」
秀吉は呆れたように大声をあげた。
「そうではございますが、この時代の医学の進歩は凄まじく、治療が行き届けば助かる命も多うござりまする。それには医者に十分の余力が必要でござりまする。このまま病人が増えれば、治療もままならぬだけでなく医者ども自身が病にかかる危険性も高くなります。医者どもが倒れてしまえばたちまち死人の山が築かれましょう」
「かつての都のようじゃ……」
ため息のように声を発したのは、法務大臣である藤原頼長であった。
藤原頼長(平安時代末期)朝廷の風紀の乱れを徹底的に取り締まり、その苛烈な性格と剛腕さから「悪左府」と呼ばれた平安時代末期の貴族、公卿。強行的な政治を行う一方で蔵書家でもあり、知識者としての一面もある。
頼長の生きた平安時代はまさに伝染病の時代であった。この頃はまともな医学もなく、知識もなかったゆえに、一度伝染病が流行すると、たちまち京の都は死骸の山となった。あまりの死者の多さに死体を片付けることもできず路上に腐乱した死骸が転がる有様で、その結果、さらに感染が広がるという地獄の様相であったと言われる。
「洪庵。病そのものを治す手立てはあるのか?」
家康が洪庵にたずねた。
「今のところはありませぬが、この手のものは時が経てば収まることが多うござりまする」
「どれくらいかかるのじゃ?」
「はっきりしたことはわかりませぬが2年ほどはかかると思いまする」
「それでは2年もの間、民たちを閉じ込めよというのか?それこそ国が滅びてまうに」
秀吉が大声をあげて両手をあげた。まるでお手上げだといわんばかりである。
「難しいところでございます」
洪庵は苦渋に満ちた表情を浮かべた。洪庵自身、幕末において天然痘と闘い、コレラ〈5〉と闘った経験をもっている。天然痘は、種痘によって予防の見込みがたったが、コレラに関してはまるで打つ手がなしで、結局のところ流行が収まるのを待つばかりというのが実情であった。実際に歴史上、伝染病・感染症で完全に根絶できたのは天然痘のみである。
洪庵の言葉に閣僚の間に重苦しい空気が流れた。
「織田さまはいかがお考えでござりまするか?」
家康は唐突に自分の左隣に座っている男に声をかけた。
居並ぶ閣僚の中でもずば抜けた威圧感と凄みを持っているこの男は、背丈はさほど高くないが、引き締まった細身の身体に南蛮風の衣装を纏い、細面につり上がった鋭い目、高い鼻に、冷酷そうな薄い唇を持っている。整っている顔立ちがこの男の持つ近寄りがたい威厳をさらにましているように思える。
経済産業大臣、織田信長。
織田信長(安土桃山時代) 戦国三大英傑の代表格であり、時代の革命者として現代での人気が高い。古い慣習を打破し、おのれの理想のためには虐殺も厭わぬ苛烈な性格は、それまで誰もなし得なかった日本全国の統一を前にして、重臣の明智光秀の突然の謀反を引き起こし、本能寺で49年の生涯を閉じることになる。
龍馬はこの異形の男に興味を持った。織田信長という男は江戸時代を通じてあまり認知、評価をされていなかった。信長の評価が上がるのは現代に入ってからである。江戸時代の人々にとっての織田信長は、『太閤記』に出てくる秀吉の主君といった程度であり、現代の感覚でいえば信長によって桶狭間で討ち取られた今川義元くらいの評価である。
したがって、龍馬も信長の知識はほとんどなかった。しかし、龍馬は、まるでその刃物がむき身で目の前にあるかのような、なんとも言い難い恐怖のようなものを信長には感じていた。
家康の迫力、秀吉のオーラとはまた違う〝狂気〟のようなものが信長にはあった。
閣僚たちの視線が信長に集められた。
信長はその薄い眉をピクリと動かした。
「是非に及ばず」
一瞬、それが人の声かどうかすらわからない、怪鳥の鳴き声のような高い声であった。
続いて、
「わしは徳川殿の意見に従おう」
と切り裂くような声で言った。それは質問の余地を与えない断定的な口調であった。
家康は軽く信長に会釈をした。
その言葉の真意はわからないが、秀吉がにやにやしながら家康の様子を見ているところをみると、〝意見に従う〟とは裏を返せば、〝家康の手腕を拝見する〟ということであろうか。
信長は言葉を吐くと再び、何ごともなかったかのように真正面を向いて背筋を伸ばしたまま石像のように動かなくなった。
戦国時代の英傑は扱いにくそうじゃ。
官房長官という役目はいわば調整役である。この信長や家康や秀吉をみていると、西郷や大久保、桂の間に入った薩長同盟 〈6〉など簡単に思えてしまう。龍馬はおのれの役割の厄介さに途方にくれた。
「大権現さま。まずは病の勢いを止めることが肝要かと思いまする」
厚生大臣である徳川綱吉が声をあげた。綱吉は、その将軍在任期間に、〝命〟というものの考え方を変えさせた男である。彼の施策であった「生類憐れみの令」は、後世では〝犬を大事にする〟法令のように言われているが、実際は、それまでの〝殺す〟ことが正義や正当な施策としてまかり通っていた時代の価値観を大きく変換させるものであった。
綱吉は、当時、あたりまえのように行われていた捨て子や行き倒れの根絶に取り組んだ。結果、明治維新まで捨て子や行き倒れに対する保護が行われた。もちろんその扱いは現代に比べると十分なものではなかったが、中世という時代において先進的な政策であった。
日本における綱吉の不当な評価は、彼によって粛清〈7〉 された政敵たちの手によるものである。綱吉は、自分の政策に反対する者、または無能な者には容赦がなかった。綱吉の跡を継いだ家宣は、生前から綱吉との関係が悪かった。したがって家宣の幕閣には、反綱吉派が多く起用された。彼らは前政権である綱吉の政治に対して厳しく批判した。その最たるものが「生類憐れみの令」である。いつの時代も、歴史は権力によって塗り替えられるものなのだ。
綱吉の申し出に、家康は親指を唇の間にいれた。そしてガリッと爪を噛む。
家康の考え事をしている時の癖である。
「それでは……」
家康はぷっと爪を吐き出し、その特徴的な茶色の目を細めた。
「1ヶ月の間。すべての民の外出を禁じる。許しなき者は例外なくじゃ」
「緊急事態宣言の発令ですな」
末席にいた老人がしゃがれた声で答えた。
本多正信である。徳川家康の参謀として、権謀の限りを尽くした男であり、今回は国家公安委員長に抜擢されている。
家康は本多正信の言葉に黙って頷いた。
「みなさま方、何かご意見はなかですかの?」
龍馬は閣僚たちに声をかけた。彼らが生きた時代は、大将が決めればそれが最終結論であったが、現在の内閣ではすべての閣僚が賛成する必要がある。このようなルールは事前にすべての閣僚にインプットされていた。
閣僚たちは皆、少し考える様子をとった。どの閣僚も安直に人の考えを受け入れるような人物ではない。全員がおのれの知識と経験を総動員して是非を考察しているのであろう。
〈2〉太閤記 小瀬甫庵(おぜほあん) が著した豊臣秀吉の一代記。儒教の理念に基づいて秀吉の足跡を調べ、論評したもの。初版は江戸時代前期の1926年。
〈3〉大権現 〝権現〟は日本の神としての称号。家康は死後、日光東照宮に祀られ、〝東照大権現〟と称された。
〈4〉総髪 日本の伝統的な髪型で、伸ばした髪をオールバックにし、まげをつくるスタイル。
〈5〉コレラ 江戸時代後期、江戸時代末期、明治時代に日本で大流行した感染症。「東海道五十三次」で有名な歌川広重もこの感染症により犠牲になった。
〈6〉薩長同盟 江戸幕府を倒すため、薩摩藩と長州藩が結んだ軍事同盟の密約。京都の屋敷で薩摩藩の小松帯刀と西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らが会して締結した。
〈7〉粛清 組織内の反主流派を徹底的になくすこと。