36歳、女、元優等生。地味な逃亡犯の目的は?『つまらない住宅地のすべての家』の執筆動機を津村記久子さんに聞いた!

小説・エッセイ

公開日:2021/4/6

津村記久子さん

津村記久子
つむら・きくこ●1978年生まれ。2005年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。09年「ポトスライムの舟」で芥川賞を受賞。『ミュージック・ブレス・ユー!!』『この世にたやすい仕事はない』『エヴリシング・フロウズ』『サキの忘れ物』など著書多数。

「出会いに恵まれない人生なんて、いくらでもあるじゃないですか。私はいい異性とかメンターに出会って人生が変わった、みたいな話が嫌いで(笑)。選ばれた人間の話は別に書きたくない。そうではなくて、誰かが一瞬だけ人生に差し込んできて、その一瞬の影響で自分の意思で変わっていける。そんな話をずっと書いている気がします」

 津村記久子の小説を一度でも読んだことがある人なら、思わず頷いてしまうはず。芥川賞受賞作「ポトスライムの舟」、今秋に映画版公開予定のデビュー作『君は永遠にそいつらより若い』、昨年の弊誌「プラチナ本」にも選ばれた『サキの忘れ物』。そして最新作『つまらない住宅地のすべての家』でも、そのスタンスは一貫している。

「『小説推理』から連載依頼をいただいたのは10年くらい前。せっかくやったら純文学では書かない題材を、と思ったのでずっと書きたかった逃亡犯の話にしました。刑務所から脱走した受刑者が逃げた先で事件を起こす話って昔からありますよね。そのときに逃げ込まれた先の住民はどんな気持ちになるんだろう? ということにすごく興味があって。もうひとつ、女性の逃亡犯が描かれるマーガレット・ミラーのとある小説が好きなのですが、その女性逃亡犯の話をもう少し読みたかったので自分なりにその先を書いてみよう、と考えたのも執筆動機のひとつです」

 路地を挟んで家が立ち並ぶ、どこにでもある住宅地。刑務所から逃げ出した女性の受刑者がその近辺に向かっているかもしれない、という報道が流れたことで、住民たちの心はそれぞれにざわつく。面白いのは皆が一様に脅えているわけではない、ということ。母が家事をしないため妹の世話をする小学生は「自分も連れて行ってほしい」と願い、誘拐計画を実行寸前だった一人暮らしの男は計画を邪魔されたことを忌々しく思う。

「実際に逃亡犯が近所に来たら、みんないろんな気持ちになると思うんですよ。『俺が捕まえる!』と張り切る子どももいるだろうし、目の前の自分の問題から逃げるために無闇に気に掛けるふりをする大人もいるかもしれない。手元にある情報の濃淡によって、逃げ込まれた先に住む人たちの気持ちも違うものになるだろうなと考えつつ描いていきました」

 つまらない住宅地を舞台にしたのは、前作からの反動だという。

「この連載の前に『ディス・イズ・ザ・デイ』というサッカーをテーマにした連作短編集を書いたのですが、そのときの取材でどの場所もそれぞれに面白いなと思ったんですよ。だから今度は逆につまらない場所のことを描きたくなって。つまらない住宅地に住む人たちの人生にも、その人たちなりの理と事情がある。そういうことも書いてみたかった」

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家族は腐敗していくもの。それを変えられるのは

 不安、高揚、脅え、期待……。一人暮らしから老夫婦まで、隣り合って暮らす住民たちに次々とスポットが当てられ、10家庭の事情も徐々に明かされていく。そこに、傷やほころびがない「標準家庭」はひとつもない。ほとんどの住民が何かしら、内側にいびつなものを抱えている。多くの場合、そのいびつさの負荷がかかるのは、弱い立場にある子どもたちだ。

「この住宅地の子どもたちは、それぞれに形は違っても大人の都合で抑圧を受けているのは同じ。目に見える虐待はなくても、腐敗みたいなものを抱えているんです。家族って、腐敗していくものですから。でも外から空気が入って来ることで、ほんの少しだけでもよい方向に変化することって確かにあると私は思っていて。横領で捕まっていた36歳の女性が、刑務所から逃げ出してきた。この事件自体はしょぼいですよね。逃亡犯が家の近所にやってくることも、いい悪いでいったら完全によくない出来事であるはず。でも、いい悪いで選別せずに、それぞれの住民や出来事の反応で話を動かしていく。そこは話を作っていく上で、かなり意識しました」

 主人公はいない。小学生も老人も、古い住民も新しい住民も、逃亡犯の日置昭子ですらも、全員が等しい立ち位置で描かれる。

「それは私が、あるときから主人公がいて脇役がいて引き立て役がいて、みたいな描き方に懐疑的になったからやと思います。全員の人生が、等価で書かれていなければならない。それぞれに人生があるのだから、と考えるようになりました」

36歳、女、元優等生。地味な逃亡犯の目的は?

 一方で、この物語の渦の中心にいるのは逃亡犯の日置昭子であることは間違いない。横領事件で逮捕された後は模範囚として服役していたが、計画的に刑務所から脱走。地味なようでいて大胆。ガチッと固い芯を持つ、36歳の女性。日置は何のために脱獄を企てたのか? 薄皮を一枚一枚剥くように、謎は少しずつ明かされていく。

「日置は難しいキャラクターでしたね。嘘をつけるくらいには悪い人間だし、逃げるために手段を選ばないところもある。やろうと思えばもっと悪い人間にもなれる。けれども真面目だし頭もいいからそこまでいかない、という。ただ、一本気な性格であることは間違いないです」

 そんな彼女がなぜ脱走したのか? 脱走するに見合う理由はあるのか。そもそもなぜ犯罪に手を染めたのか? 日置のスリリングな逃走劇と並行して、挨拶を交わす程度の仲でしかなかった住民たちの関係性も変化していく。

「この住宅地に住む人たちと日置はほとんどが無関係です。でも犯罪者である日置の行動によってたくさんのことが引き起こされ、それぞれの家に閉じていた人たちが、開いていく。何かを掴んでいく。人が外に開くきっかけって、本当に些細なことだと思うんです。七並べをやったら意外と楽しかったとか、ちょっとしたやり取りで人として扱ってもらえた実感が持てたとか。意味一辺倒で生きていたら絶対に見出さないであろう小さなことがきっかけで、新しい風って入ってくると思うから。この住宅地にはまともな大人も結構いますが、大人だって一人の人間の中にマシな部分もあれば、マシじゃない部分もありますよね。そういうのが狭い住宅地で入り混じっている様子も描きたかったんです」

コロナなんて大きなことは全然書きたくない

 新型コロナウイルスの世界的大流行は、私たちの生活様式を大きく変えた。けれども人生を本当の意味で変えるのは、大きなドラマではなく、日常で偶発的に生じる小さな出来事だと津村さんは信じている。

「コロナウイルスを憎むからこそ、自分の書く物語の舵は取らせたくない。それよりは、人はこの程度のことでも開くんだということや、悪いように思える出来事から起きる人間同士の化学反応のようなことを私はこの先も書いていきたいです」

 日置は逃亡の目的をどんな形で果たせるのか。連鎖する出来事はやがて、凪のように静かなラストシーンへと向かっていく。つまらない住宅地に日常が戻った後、日置の元同級生だった耕市は彼女へ静かに思いを馳せる。

〈いつかは会えるだろう。幸せではなくても、最悪なわけではないどこかの時点で〉

 何気ない雑談、ふと手に取った本、突発的な出来事。そんな風に起きる小さな化学反応に、心が救われる瞬間は確かにある。天国でもなければ地獄でもない日常を、私たちは生きているのだから。

取材・文:阿部花恵 写真:講談社/嶋田礼奈