40年以上常連客だった夫婦の正体は…心震えるショートストーリー/一穂ミチ『回転晩餐会』後編

文芸・カルチャー

更新日:2022/2/9

注目作家・一穂ミチの最新刊『スモールワールズ』に未収録の特別掌編「回転晩餐会」。切ないのにほんのりとあたたかい気持ちになるひとひらの物語を、本書に先駆けてお楽しみください。

前編はこちら

スモールワールズ
スモールワールズ』(一穂ミチ/講談社)

 私は切り出す。

「当店は今年いっぱいで閉店することとなりました」

 ビルの老朽化による安全面の懸念が理由だった。建て替えののちにリニューアルオープンする予定だが、新しい店はもう回らない。夜景とちょっとした料理が楽しめる、「ただのレストラン」になる。だから、最後の記念日を、ふたりで過ごしてほしかった。

「そう」

 奥さまはカップをソーサーに置き「このビルももう古いものね」と頷いた。

「私もおばあちゃんになるわけだわ」

「おひとりでいらっしゃるのは初めてですね」

「そうなの。今年の春にあっけなく死んじゃってね」

 亡くなり方を表すように、彼女の口調もあっさりとしていた。予想していたとはいえ少なからずショックだったが、表に出さないように努めて「お悔やみ申し上げます」と一礼した。

「勝手ながら、毎年、ご夫婦で来られるのを楽しみにしておりましたので、寂しく思います」

「ああ、いえ、違うのよ」

 奥さまはじっと私を見上げて、言った。

「わたしたち、夫婦じゃないの。赤の他人よ」

 思いがけない答えに、今度は驚きを隠せなかった。

「ごめんなさい、夫婦だって思うわよねえ。わざわざ訂正するのも変な気がして。お互い、連れ合いは別にいるの」

 では、単なる友人か、あるいは不倫? ガラスに映る自分の顔は夜景と困惑が重なって見えた。奥さまは静かに「六十年近く昔の話よ」と言う。

「乗ってた飛行機が海に落ちて、大勢死んだの。わたしと、あの人だけが生き残った」

 その惨事は、もちろんニュースで見聞きしたことがあった。小学生と中学生の乗客二名が生存、と大きく報じられていたのも。まさか、目の前にいる彼女がその当事者だったとは。

「わたしは足に障害を負って、あの人は家族を残らず失った。『奇跡の生還』って呼ばれた。病院を退院する時には、持ちきれないほどの花束を渡された。でも、何が奇跡なものかってずっと腹立たしかったの。全員が助かってこその奇跡でしょう? あの人と連絡を取るようになって、彼も同じことを思っていると分かって、嬉しかった」

 あそこ、と彼女は西の空を指す。八十分、ちょうど一周して、来た時と同じ位置に戻っていた。

「あの日、このレストランから見えたらしいのね。西の方角に、エンジンから炎を上げて飛ぶ飛行機が。だから、毎年この日はここでお夕飯をいただこうって決めたの。式典とか集いはどうしても気が進まなくて……回転してくれるのはありがたいわね。じっと見ているのはつらくなるから」

 彼らが体験した凄惨な「あの日」。毎年ここで過ごした「この日」。私は数年前の差し出がましいサプライズを思い出し、深々と腰を折らずにはいられなかった。

「申し訳ございません」

「なあに?」

「ご事情も知らず、その節は失礼なまねを……」

「いいのいいの、頭を上げてくださいな。わたし、気にしてません。本当よ。一瞬だけでも、自分たちがただの幸せな夫婦になれたみたいで、嬉しかったの」

 恐る恐る目線を戻すと、彼女の柔和な微笑に出会う。髪が白くなり、皺が刻まれても変わらない。

「『君が泣くところを初めて見たよ』って彼が言って、そうかしらと思ったけど、きっとそうだったのね。年に一度、八十分だけ。かける四十五年、それがわたしたちの全部。毎年、平凡でつまらないお互いの生活を報告し合うためにここに来てた。奇跡なんかじゃない、自分たちだけが助かったことに意味はないしそれでいいんだって確かめたかった。宝くじが当たったり、お忍びで来日したお姫さまと恋に落ちたりしない、何でもない人間の、取るに足らない人生だって」

 君が泣くところを初めて見たよ。私には、それは愛の告白に聞こえた。彼は彼女を好きだったのかもしれない。彼女も彼を好きだったのかもしれない。互いがそれを分かっていたのかもしれない。でも「赤の他人」でい続けた。勝手な想像だが、やりきれなさに勝てなかったのではないだろうか。

 わたしたちが結ばれてしまったら、「あの日」の出来事が、わたしたちのための舞台装置みたいになってしまう、と。同じ便に乗り合わせた赤の他人同士として、すれ違った記憶さえなく離れていくはずだったのに。奇跡を拒み、抗いながら重ねた逢瀬。

「これからはひとりでここに通うのかしらって思ったけど、潮時なのね。いろいろ、うまくできてるわね。……お会計をお願いします」

「かしこまりました」

 彼女が「ただの客」の顔に戻ったので、私も従業員としての務めに戻った。クレジットカードで精算し、彼女の歩調に合わせてフロアの中心部にあるエレベーターホールまで見送った。

「お気をつけてお帰りくださいませ」

「ありがとう。お元気でね」

 彼女の笑顔が両側から幕を引くように閉じられ、エレベーターのドアによって完全に遮断される。私はすぐには戻らず、ゆっくりと回る自分の職場を見つめた。さっきまで彼女がいたテーブルはもう同じ位置にはない。最後の日まで、あと何周するだろう。この環、この円、私が愛した回転。