人間関係がうまくいかないのはなぜ? 解決のカギは「パラダイム・シフト」/他人に気をつかいすぎて疲れる人の心理学①
公開日:2021/4/16
『他人に気をつかいすぎて疲れる人の心理学』から厳選して全5回連載でお届けします。今回は第1回です。
相手のために自分をすり減らしていませんか?「がんばっているのに認めてもらえない」「イヤなことを押しつけられても“いい顔”をしてしまう」…。そんな風に他人に気を使いすぎて疲れてしまう人の心理問題を解説する一冊です。
まえがき
なぜ人間関係がうまくいかないのか?
「相手のため」と思っていることが、相手のためではないと気がつくことがある。現実にはなかなか気がつかないが、視点を変えるパラダイム・シフトで、そんな自分に気がつくことはある。
ただ本人は相手のために「ふさわしい努力」をしているつもりで、実は「ふさわしい努力」をしていないことが多い。本人は必死で相手のために頑張っているつもりで、実は自己中心的で独善的で自分勝手なことをしている。
人には思い込みによる不幸というのがある。少し視野を広げれば、少し価値観を変えれば、幸せになれるのに、幸せになれない。
その視点を変えるのがパラダイム・シフトである。視点を変えるということである。多面的な視点で世界を見る。
敵意を持っている人が、好意をもって世の中を見る。対立した気分に陥ることにはならない。
フロムの言う神経症的非利己主義の行動をしていることが多い。したがって頑張った努力は報われない努力になる。
本人は自分が神経症的非利己主義者であることに気がついていない。そこで嘆く。
神経症的非利己主義は非利己主義であるが、それは相手に気に入られるために非利己主義である。いい人と思ってもらうための非利己主義である。
頑張って、頑張って働いて懐かしい思い出も、かけがえのない人間関係も、お金も何も残らない。
無理をして、さらに無理をして尽くして、心の中には何も残らない。ただ消耗する。心が弱くなるだけ。
これがフロムが言う神経症的非利己主義の症状である。
その症状はフロムの言うごとく疲労、抑うつ、愛の関係の失敗などである。努力するのだが、最後には努力が報われない。悔しさが残る。
自分が無意識では病的に利己主義でありながら、そのことに気がついていない。人に迷惑をかけているのだが、迷惑をかけているという感覚がない。
相手は自分に何を期待しているかということを理解する気持ちの欠如した人だからである。
神経症的非利己主義者のしていることが意識ではよい人で、無意識では搾取者である。人に知らせずひそかにする善行を陰徳と言われるが、神経症的非利己主義はその逆である。
生への憎しみが、徳という仮面をかぶって登場したのが神経症的非利己主義である。*1
もちろん本人は自分の無意識の憎しみに気がついていない。
「私はこんなに人々に尽くしています、皆さん見てください」と自分を売り込んでも、人はそのことに気がついていないことが多い。
気を使って消耗していても、だいたい人は見ていない。人を意識しての行動というのは疲れるだけでばかばかしいものである。自分が「こうしたら」、きっと人が「こう思うだろう」ということを期待して行動しても、人はそう思わない。これほど無駄に消耗することはない。
生への憎しみが、徳という仮面をかぶって登場したのが神経症的非利己主義である。*2
神経症的非利己主義の人の場合では、本人がどう思っていようとも相手が自分のすることを望んでいないということを理解できない。相手が助けられることを望んでいないのに助けようしているということを理解できない。
恩着せがましい人は、周囲の人との関係が破綻している。
それはカレン・ホルナイが神経症者は冷酷なまでに利己主義か、あまりにも非利己主義であると言ったことにも通じる。*3
自分は素晴しいことをしているつもりで、実は相手を殴っている。自分の中の衝動を満足させつつ、自分は聖人だと思っている。
母親で言えば手抜きではあるが一応努力はしている。そこが分かりにくいところなのである。
もしこの母親が完全に怠け者で、子どもの世話を何もしないで毎晩友達とカラオケに行っているなら分かりやすい。子どものためになっていないということは誰にでも分かる。本人も自分は立派な母親でないと思っている。
最悪の親の場合には、子どもの思っていることと母親自身が思っていることと周囲の人が思っていることと一致している。
しかし自己執着で子どものために努力する母親の場合には、子どもの願望と大きな食い違いがある。
本文中に何度か触れるが、「あなたさえ幸せなら、お母さんはどうなってもいい」と言う母親が理解できないことは何か。
それは努力するのだけれども、子どもが成長するために必要とするものを与える努力になっていないということである。そこを母親が理解できていない。
最悪の親は分かりやすいが、最低の親は分かりにくい。
本当に、あなたさえ幸せなら、私はどうでもよければ、そんなことは言わない。
このような人たちは、「心の底が生への憎しみによって満たされていることと、そして非利己主義という正面像の陰には、巧妙にではあるが、強い自己中心性が隠されているということが示されるのである。*4
自己執着的対人配慮など、言葉はいろいろとあるが、全て同じである。自己執着的対人配慮をしているから、報われない努力になる。結果は、恨む、悔しい、後悔する、嘆く。
しかし本人は自分が自己執着的で、自分の心を癒すために配慮をしていることに気がついていない。自分が自己執着的人間であることに気がついていないで、人のためと思っている。
「あの人は私の命です」と言ったときに、その人は「私はあの人」を愛していると錯覚する。
しかしそれは強烈な自己執着の表現であることが多い。
あの人への執着をあの人への愛と錯覚する。
あの人とのつながりが、自分の孤独を癒しているかもしれないし、自我価値の剥奪から自分を守ってくれているかもしれないし、何かの利益を与えてくれているかもしれない。
とにかく何か自分の心の葛藤を解決してくれるのが「あの人」の存在なのである。その心の葛藤が深刻なら深刻なほどその人への執着が激しい。そして「こんなにも愛している」と「激しい執着」を「激しい愛」と錯覚する。
「あの人は私の命です」と言ったときに、たいていは執着である。自己執着の強い人である。
本当に愛している人はあまりそういう誇大なことを言わないし、自分の愛をものすごいことに思わない。ただ「ひたすらに」愛する。
そもそも理想の自我像実現に向かって努力する人はナルシシストであることが多い。
そういう人には、周囲が「ない」。つまり自分と違った固有のパーソナリティーの持ち主としての他者がいない。
そして本人にとってはその努力は辛い。しかしその辛い努力は報われない。しかし本人は自分がナルシシストであることに気がついていないから、心の底の怒りで人生に疲れてくる。
「苦労している、苦労している」と文句を言いながらも、苦労する生き方をやめない人がいる。
そういう人は、犠牲的役割を演じることによって、相手から同情や愛情を求めているのである。あるいは心の底で相手に罪の意識を要求しているのである。
自己執着的対人配慮をしながら、自分は立派な社会人と思っている。だから悩みは尽きない。毎日が悔しい。
もし、本人が実際の自分に気がついていれば、何よりも周囲の世界の人間の態度が違う。また全く違った種類の人間が周りに集まってくる。
自分がナルシシストでなくなれば、自分の周囲の世界の人間が全く違ってくる。いい顔をしながら人を操作する人間ではない。人を利用する人たちではない。人の痛みを知らない人間ではない。搾取タイプの人ではない。自分さえよければ人なんかどうでもいいという人たちではない。
報われない努力をする人の周りには、ハイエナが集まっていることが多い。愛の仮面をつけたサディストが集まっていることが多い。
悪魔は最も恐ろしいものではない。本当に恐ろしいのは愛の顔をした悪魔である。
本当に恐ろしいのは、弱さに変装したずるい人である。そういう人にとことん剥ぎ取られる。最後の血の一滴まで吸い取られる。
そして丸裸にされて、むしりとられるのは、自分を勘違いしている人である。報われない努力をしている人である。報われない努力をしている人はどちらかというと、お人よしで心理的には執着が強くて、幼稚である。
今までの人生で、「こんな恐ろしいことに出会ったことはない」と言うような体験をしている人は、まず自分を見つめることである。
自分は非利己主義者と思っていたが、全く反対で強欲な利己主義者ではないか?
自分は相手を愛していると思っていたが、自分の幼児性から相手に執着していただけではないか。愛していると思っていたが、相手から搾取していただけではないか。搾取していることに気がついていないほど、自分は幼稚で、自己中心的ではないか。
自分は、自分が思っている自分と、本当の自分とは正反対な人ではないか?
それに気がつけば、違った世界が見える。まさにパラダイム・シフトが起きる。
悩みは、自分が何に動かされているかが分かれば解決する方向に向かう。
自分は嫌いな自分に執着していないか。嫌いなあの人に執着していないか。
自分が嫌い、でも自分を素晴らしく見せる努力をしていないか。
あの人が嫌い。でもあの人によく見せる努力をしていないか。
人が嫌いなくせに、人から嫌われることを避けようとする努力をしていないか。
ハワード・ガードナーの『Creating Minds(創造する精神性)*5』という本にガンジーのことが書かれている。
かつて彼は自分のことをこう述べていた。私は平均以下の能力しかない平均的な人間である。しかし気にしない。
それはなぜか。知的発達には限界がある。しかし心の発達には限界がない。
自分の人生は失敗の連続であったと劣等感を持ち、不幸な人がいる。
しかしこの認識は違う。
失敗の連続によって不幸なのではない。人からよく思われたい、人によい印象を与えたいという依存欲求で不幸なのである。
自分の価値が他人から評価されることに頼れば頼るほど、傷つくことが多くなる。人が言った何気ない一言で心が深く傷つくことがある。
人の言った、ささいな一言で怒りを感じる。相手のちょっとした態度で不愉快になる。
そのように怒りを感じたり、不愉快になるのは、その言葉で自分の価値が否定されたと感じるからである。
そして怒りから相手を責める。その怒りが直接表現されないときには、内にこもって不愉快になる。さらには進んで憂鬱になる。そして自分が憂鬱になった原因は相手だと思い込む。
しかし不愉快になった本当の原因は、相手の態度や言葉ではなく、自分の心の中にある。つまり自分の価値を他人の評価に頼る心の姿勢である。
その心の姿勢こそ日々の不愉快の本当の原因なのだが、それに気がつかない。
「自分の価値が他人に頼れば頼るほど、自分を卑しめる機会が増える。*6」
長いこと努力しても幸せになれない人は、自分の不幸の原因を間違って解釈している場合が多い。
この本では不幸の本当の原因は何なのかを考えた。
「何度、私たちは人々が〝頑張る〞のを目にしたことでしょう。そして、そのたびに私たちは彼らをなだめることができたなら、つまり彼らがしていることを切りつめさせることができたなら、彼らが自分の不安や憎悪や、あるいは見当違いな高望みを自分の中につちかうのをやめてくれるのではないかと、本能的に感じていたのです。*7」
核ができていない人の努力は報われない。人間の心の中がスカスカなのである。心の空洞化である。人間がドーナッツみたいになっている。
ネコの足と犬の足は違う。だからネコの生き方は不自然にならざるを得ない。ところがこうして、もともとはネコのような動物をイヌとして育てるような親は、その不自然になったネコを軽蔑する。「そのままでいいんだ」というような言い方をする。
自分が「そのままで」いられないように育てておいて、「そのままでいいんだ」と言う。
こういう育てられ方をすると、どうしても自分がなんだか訳が分からなくなる。
ネコは努力すればするほど、人生が行き詰まる。そして「こんなに努力しているのに」と嘆く。
自分がなんだか訳が分からないままに一生懸命に努力をして、最後には「自分だけが不幸」という感じ方になる。
*1 Erich Fromm, The Art of Loving, Harper & Publishers, Inc,1956. 愛するということ、懸田克躬訳、紀伊圀屋書店、一九五九年、八六頁
*2 前掲書、一九五九年、八六頁
*3 Karen Horney, Our Inner Conflict, W.W.NORTON & COMPANY, 1945. p.291-292
*4 Erich Fromm, The Art of Loving, Harper & Publishers, Inc, 1956, p.52. 愛するということ、懸田克躬訳、紀伊圀屋書店、一九五九年、八五頁
*5 Howard Gardner, Creating Minds, Basic Books, 1993, p.313.
*6 Nathan Leites, Depression and Masochism,W.W.NORTON & COMPANY, Inc., 1997, p.95
*7 George Weinberg’ Self Creation, St. Martin’s Press Co., New York, 1978. 自己創造の原則、加藤諦三訳、三笠書房、一九八四年、二〇頁