125歳まで生きるつもりだった!? 歴代総理大臣の最高齢記録者「大隈重信」/死にざま図鑑④

文芸・カルチャー

公開日:2021/4/22


死にざま図鑑』から厳選して全7回連載でお届けします。今回は第4回です。

日本の歴史人物の「死にざま」にスポットを当て、その生涯を紹介。残念なラストに終わった、あの人物の大失敗とは? 幸せな最期を迎えたあの人物の処世術とは? 偉人たちの最期の姿を通じて、よりよく生きる術を知る歴史雑学本です。

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死にざま図鑑
『死にざま図鑑』(伊藤賀一:監修、田渕正敏:絵、沖元友佳:文/ポプラ社)

死にざま図鑑

大隈重信(1838~1922年)

肥前佐賀藩士の息子として生まれ、志士として活動する。明治時代になると、新政府の大蔵大臣として政府のお金を管理した。総理大臣も二度つとめるなど、明治・大正時代の日本を引っぱったリーダー的人物のひとり。明るい性格で演説上手だったので庶民から人気があった。ただ、字を書くのが下手で、公式な文書の署名以外ではほぼ筆をとらなかったそうだ。

大蔵大臣:現在の財務大臣。

死にざま図鑑

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 若いときからオランダの学問や英語をたくさん勉強していた重信。その頭のよさを認められて、明治新政府の一員として活躍した。日本の財政を担当した重信は、地租改正(土地にかかる税金の制度を改めること)や殖産興業(工業を発展させて国を豊かにすること)など、次つぎと難しい問題に取りくみ、改革をすすめていった。しかし、重信は財政上の失敗で、政府を追いだされてしまう。

 それでも政治の世界をはなれなかった重信は、1882年に国会の開設にそなえて立憲改進党という政党を結成したんだ。その後、二度総理大臣をつとめた。

 二度目の総理大臣のときには、世界では第一次世界大戦が起こっていた。ちなみに、重信は78歳で総理大臣をやめた。これは歴代総理大臣のなかでも一番の高齢記録なんだ。こうして活躍した重信も、晩年は病気で弱っていた。それでも少し具合がよくなるたびに客に会いに出かけ、医者に注意されていたらしい。そのとき重信は、「日本の未来のためにわたしは少しでも話をしないといけないのだ」と言ったそうだ。

重信のざっくり年表

1838年 肥前国(現在の佐賀県と長崎県)佐賀藩士・大隈信保の長男として生まれる。
1864年 長崎で英語を学ぶ。
1868年 明治新政府のもとで、長崎の外国事務局判事(外国との交渉役)となる。
1870年 参議となる。
1882年 立憲改進党を結成する。東京専門学校を創立。
1888年 第一次伊藤博文内閣の外務大臣となる。
1889年 青年に爆弾を投げられ、片足を失う重傷を負う。
1898年 第一次大隈内閣の内閣総理大臣となる。
1914年 第二次大隈内閣の内閣総理大臣となる。
1922年 病死する。

死にざま図鑑

<第5回に続く>