死の直前まで日記は英語で… 女子の英語教育に心血を注いだ「津田梅子」/死にざま図鑑⑤

文芸・カルチャー

公開日:2021/4/23


死にざま図鑑』から厳選して全7回連載でお届けします。今回は第5回です。

日本の歴史人物の「死にざま」にスポットを当て、その生涯を紹介。残念なラストに終わった、あの人物の大失敗とは? 幸せな最期を迎えたあの人物の処世術とは? 偉人たちの最期の姿を通じて、よりよく生きる術を知る歴史雑学本です。

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死にざま図鑑
『死にざま図鑑』(伊藤賀一:監修、田渕正敏:絵、沖元友佳:文/ポプラ社)

死にざま図鑑

津田梅子(1864~1929年)

6歳のときに日本で最初の女子留学生のひとりとして、アメリカに留学した。17歳で帰国したのちは、教師として女子に勉強を教える。日本では女性の地位が低く、教育も遅れていたことから、二度目の留学から帰国後に女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設する。梅子の授業はとてもきびしく、生徒からおそれられていたそうだ。2024年度からの五千円札の肖像画でもある。

死にざま図鑑

死にざま図鑑

 11年間の留学を終えて17歳で日本に戻ってきた梅子は、すっかりアメリカの生活になじんでしまっていた。なんと、日本の生活習慣や日本語が、ほとんどわからなくなっていたんだ。ときには、日本語のわかるアメリカ人に日本語の通訳を頼むほどだった。

 教師生活を送りながら、梅子は、当時の日本女性について「地位の高い女性は男性の好きにあつかわれているおもちゃ、地位の低い女性は召使いにすぎない」と感じたことから、日本女性のありかたそのものを変えたいと思うようになった。そして、自分の生涯の仕事は、女子に高等教育を広めることだと決意したんだ。

 梅子は二度目のアメリカ留学から帰国後、35歳のときに、東京の麹町に女子英学塾という、女子の英語教育のための学校をつくった。梅子はアメリカじこみの英語を、きびしい授業で生徒にビシバシたたきこんだ。当時、英語教師は数少ない女性の専門的な職業だった。梅子の学校で英語を身につけた卒業生たちは、社会に出て活躍をしていったんだ。

梅子のざっくり年表

1864年 現在の東京都で幕臣だった津田仙の子として生まれる。
1871年 岩倉使節団の女子留学生として、アメリカへ渡る。
1873年 アメリカで、キリスト教の洗礼を受ける。
1882年 アメリカから帰国。日本の生活になじむのに苦労する。
1889年 アメリカへ二度目の留学。
1892年 アメリカから帰国。
1898年 女子高等師範学校の教授となる。
1900年 東京に女子英学塾を創設する。
1929年 長い闘病生活ののち、鎌倉で病死。

死にざま図鑑

<第6回に続く>