90歳を超えても死ぬまで働き続けた近代日本実業界の父「渋沢栄一」/死にざま図鑑⑦

文芸・カルチャー

公開日:2021/4/25


死にざま図鑑』から厳選して全7回連載でお届けします。今回は第7回です。

日本の歴史人物の「死にざま」にスポットを当て、その生涯を紹介。残念なラストに終わった、あの人物の大失敗とは? 幸せな最期を迎えたあの人物の処世術とは? 偉人たちの最期の姿を通じて、よりよく生きる術を知る歴史雑学本です。

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死にざま図鑑
『死にざま図鑑』(伊藤賀一:監修、田渕正敏:絵、沖元友佳:文/ポプラ社)

死にざま図鑑

渋沢栄一(1840~1931年)

小さなころから家業の商売を手伝いつつ、学問や剣術を学んだ。明治時代になると、大蔵省の役人として、お金の単位を「両」から「円」に変更するなど、新しいお金のしくみをつくった。その後、第一国立銀行を創立したのをはじめ、たくさん会社をつくった。その数はなんと約500社。近代日本の実業界の父とよばれている。2024年度からの一万円札の肖像画はこの人。

大蔵省:現在の財務省。

死にざま図鑑

死にざま図鑑

 栄一の人生を変えたのは、幕府の役人として訪れたフランス・パリの万国博覧会だった。電信や蒸気を使った機械などの最新技術を見た栄一は、日本とのあまりの差におどろいた。2年間の外国生活のなかで、これらの技術や社会システムを日本にも取りいれなければならないと考えたんだ。

 帰国したときには、すでに江戸幕府はなく、栄一は明治新政府にまねかれて、大蔵省に入って働くことになった。外国で学んだことを生かし、新しいお金のしくみなどをつくったんだ。しかし、「日本の商工業を発展させるには、政府で働くのではなく、自分で会社をやらなきゃダメだ」と、役人をやめて、実業家となった。それから、銀行や鉄道、鉱山、保険、建築など、あらゆる産業にたずさわり、たくさんの会社をつくった。

 76歳で実業界からしりぞいたあとも、教育や福祉、文化事業など、多くの人を幸せにするためにつくしたぞ。

電信:文字や画像などを電気信号にかえて電流や電波を利用して送り、相手先で元の文字や数字に戻して受けとる電気通信の一種。

栄一のざっくり年表

1840年 現在の埼玉県深谷市に豪農渋沢市郎右衛門の子として生まれる。
1861年 尊王攘夷派の志士と交流を深める。
1864年 尊王攘夷派から一転し、幕臣として一橋慶喜に仕える。
1867年 徳川昭武のおともで、パリの万国博覧会を訪れる。
1868年 帰国。
1869年 静岡で商法会所を設立する。民部省(のちの大蔵省)の役人となる。
1873年 大蔵省をやめて、第一国立銀行を創立する。
1916年 実業界を引退。教育や文化事業などに力をそそぐ。
1931年 病死する。

徳川昭武:水戸藩十一代当主。十五代将軍慶喜の異母弟。
商法会所:商人や藩など、さまざまな人がお金を出してできた会社。現在の株式会社のようなもの。
第一国立銀行:日本で最初につくられた銀行。

死にざま図鑑

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