すっと通った鼻筋、形のいい唇、切れ長の目…チェス喫茶のマスターはクラスメイトの世野くん⁉/チェス喫茶フィアンケットの迷局集④
公開日:2021/4/23
珈琲とチェスを楽しむ喫茶店「フィアンケット」。そこでバイトを始めた高校生の柚子子と、クラスメイトにして代理店長の世野が、不可解な謎を解き明かしていく“日常本格ミステリ”。天真爛漫な柚子子と冷静沈着な世野の凸凹コンビっぷりに、思わず胸キュン!? 〈第3回双葉文庫ルーキー大賞受賞作〉
そうして今、あたしはあるお店の入口に立っている。
街の中心部から少し外れた、小道の一角だった。チョコレートのような外壁と、ところどころに這う蔦。年月の分だけ後者の緑の比率が増えて、独特の異世界感が一層強まったように思える。
何度も確認した看板。そこに書かれた文字を、もう一度心の中で読み上げる。
――チェス喫茶『フィアンケット』。
間違いない、このお店だ。
胸に手を当てて、自分の動悸を確かめてみた。早鐘かどうかはよく分からないけれど、体の内側から響くBPMが異常なほどハイテンポなのは確かだ。
緊張で喉がからからだった。手には汗がにじみ、しまいには足まで震えてくる。
でも、いつまでもこんな所で黙々と突っ立っているわけにもいかない。だからいよいよあたしは一つ気合を入れた。
橘子叔母さん、あたしに勇気を……よし!
ぐっと目の前の取っ手に力を込め、開く。
からんころんとなるドアベル。
「し、失礼します……!」
外の陽が燦々と差していたせいか、店内はやけに薄暗く感じた。
バーカウンターがまず目に入るけれど、そこに人の姿はない。
あたしは体を滑り込ませるようにしながら、後ろ手にドアを閉めた。同時に周囲にくまなく目を走らせる。店内は静かで、お客らしいお客はいないよう――とそこまで思った時、視覚が異常を捉えた。
店の奥の丸いテーブル席。シャツにタイとベストを合わせ、ウエストエプロンを結んだ、明らかに店員と思しき人影がゆったりと腰かけている。
それは堂々たる職務放棄にも見えたけれど、あたしはツッコミも忘れてその姿に惹きつけられる。なぜなら優雅に足を組み、テーブルの上にじっと目を注いだままの彼が、ちょっと後ずさりしそうになるほど美形の男の子だったからだ。
すっと通った鼻筋。形のいい唇。切れ長の目には長い睫毛が添えられて。見覚えのあるさらっさらの黒髪は屋内なのに微風になびくかのごとく揺れて輝いて見えた。窓から差し込んだ光がスポットライトみたいになってるのはわざとなの? ちょっとできすぎじゃない?
とにかく――そこにいたのはクラスメイトの世野くんなのだった。
彼はこちらには一切見向きもしなかった。それどころか、あたしが入ってきたことに気づく様子すらない。腕を組み、まるで時が止まったかのように固まっている。
不意に、彼が彫像のようだった体を息づかせ、右腕を前に伸ばした。テーブルの上に置かれた小さな人形を手に取り、なめらかな手つきで、こつ、と手前に置き直す。
その音で、あたしも魔法が解けたように自分の目的を思い出した。
「あの――」
声をかけようとした瞬間、こちらに気づいた彼がすっくと立ち上がった。
「失礼しました。いらっしゃいませ、お客さ――」
そこで彼は目を剥き、出しかけた足を止める。
「……なんでお前がここに?」
「そ、それはこっちのせりふだよ!」あたしも上ずった声で言い返す。「なんで世野くんが……このお店で働いてるの?」
世野くんは見開いていた目を細め、低く一言だけ吐き出した。
「……出ていけ」
「え?」ちょっと! それはあまりにも横暴ってものだ。「いきなりそれはひどくない? だってここはお店で、あたしはそこにやって来たお客さんなんだよ?」
「店にも客を選ぶ権利くらいある。ここはお前のような奴の来る場所じゃない」
ああ、もう。埒が明かない。
「待ってよ。せめてマスターと話をさせて。いるんでしょ?」
世野くんはいらいらと溜め息をつく。一刻も早く会話を切り上げたいとばかりに言い捨てた。
「俺だ」
「え」
「俺がこの店のマスターだ」
またもや予期せぬ事実に頭が揺さぶられ、あたしは目をまん丸くした。
「……本当に?」
「そうは見えない、と?」
静かな物言いだけど、今日イチのいらいらが声ににじんでいる。
あたしは両手を振って否定した。「めっそうもございません! でも……あたしの記憶が正しければ、ここにはお髭のおじいさんのマスターがいるはずだったから……」
今度は世野くんが虚を突かれたようになる。
しかしすぐに彼は眉間にしわを寄せる表情に戻った。そして何を思ったのか、不機嫌そうな表情のままずんずんとあたしの方に向かって歩いてくる。
え、ちょ、何? 待って、ち、近っ――。
あたしは怖気づいて反射的に目を瞑った。だけど、一向に何が起こる様子もない。うっすらとまぶたを持ち上げると、彼はあたしの体の横を華麗に素通りしていた。
背後を見やると、世野くんは一度外に出て、入口のドアにかけてある札を裏返していた。
そうして次は店の奥の扉に向かって歩きだす。扉の前で立ち止まると、彼は無言であたしについてこいと目で訴えた。
緊張がよみがえってくる。だけど、他にどうすることもできず、あたしは急いで彼の後を追った。
通された部屋はこぢんまりとして、事務所と物置を兼ねているような趣だった。といっても雑多な感じはせず、きちんと整頓が行き届いている。
彼はあたしに椅子に座るよう促し、低いテーブルの向こう側に自分も腰を下ろした。
「――で、どういうことだ」
「へ?」
「なんでお前がじいちゃんのことを知ってる?」
「じいちゃん?」
世野くんの口から聞くと妙にミスマッチな言葉だった。じいちゃん……って、んん? 頭の中で、歯車がかちりと噛み合う。「もしかして……お髭のマスターって世野くんのおじいちゃん!?」
「今のマスターは俺だ」世野くんは律義に訂正してから。「でも、まあそうだ。『フィアンケット』を長年切り盛りしてたのは俺のじいちゃんだった」
そう言われてみると、昔々にここを訪れた時、マスターの足元にあたしと同い年くらいの男の子がぴったりくっついていた記憶がある。あれは世野くんだったのか。あの時は直接お話できなかったけれど、今こうして再び向かい合っている。世間って意外と狭いものだ。
……でも、待って。直前の世野くんの語尾が、なんだか引っかかる。
「じいちゃん、だった?」
会話のテンポがそこで一瞬淀んだ。ねめつけるようだった世野くんの視線が少し伏し目がちになる。
「……今年の初めに、脳の血管が詰まって倒れたんだよ」
それを聞いた時、ずん、と心臓がお腹の底まで落ちてきたかと思った。気管がきゅっと縮んで息ができなくなる。
そうだ。あれからもう十年近い月日が経っている。あの時だってマスターはおじいさんだった。それからさらに年を重ねていけば、こういうことが起こったとしてもちっともおかしくないのだ。
だけど、あたしは自分の都合で今の今までお店に足を運ぶこともしなかった。最低だ。情けなくて涙が込み上げてくる。だけどそれを必死でこらえた。だって、もっともっと苦しんだであろう人が、目の前にいるから。
沈黙が気まずくて、あたしはなんとか言葉を口にした。
「あの……つらいこと思い出させてごめんなさい」
「別に謝らなくていい」
「ううん、あたしの考えが足りなかった。マスターはいつまでもにこにこしながら、ここでお店を開いているものだって信じて疑わなかった。そんなこと、あるわけないのに……。ねえ、世野くん。せめてあたしにもおじいさんのご冥福をお祈りさせて……」
「は? ご冥福?」世野くんが怪訝そうに声を上げる。「いや、勝手に殺すなよ」
「……え?」
「手術は成功したから命に別状はない。今もぴんぴんしてる」
話を聞けば、マスターの姿が見えないのは経過観察とリハビリで入院中のため。その間だけ世野くんが代わりにお店を見ている、とこういうわけだった。
平日は学校があるから、午後から店を開けているとのこと。なるほど、世野くんが放課後に疾風のごとく姿を消すのはこういった事情があったのか。
「……よかったあ」あたしは椅子の上で脱力した。「紛らわしいこと言うのやめてよお」
「お前が勝手に早とちりしたんだろ」そこで世野くんは仕切り直すように首を振った。「いや、話が脱線してる。最初の質問に答えろ。なんでお前が俺のじいちゃんを知ってる? もしかして、過去にこの店に来たことがあるのか?」
――そう。
あたしは今日、まさにそのことについて話しに来たのだ。
いよいよ本題。あたしは居住まいを正す。
「世野くん、あのね――」