地獄のただ働き。彼の要求がエスカレートする前に……よし、決めた!/チェス喫茶フィアンケットの迷局集⑥

小説・エッセイ

公開日:2021/4/25

チェス喫茶フィアンケットの迷局集
『チェス喫茶フィアンケットの迷局集』(中村あき/双葉社)

 珈琲とチェスを楽しむ喫茶店「フィアンケット」。そこでバイトを始めた高校生の柚子子と、クラスメイトにして代理店長の世野が、不可解な謎を解き明かしていく“日常本格ミステリ”。天真爛漫な柚子子と冷静沈着な世野の凸凹コンビっぷりに、思わず胸キュン!? 〈第3回双葉文庫ルーキー大賞受賞作〉

 それからはてんてこ舞いだった。

 彼があたしに要求したのは喫茶店における雑務全般だった。しかも地獄のただ働きだ。

 その罰がはなはだ恐ろしいことに違いはなかった。けれど、想像していたものが想像していたものだっただけに……あたしは二つ返事でこの要求をのんでしまったのだ。

 ――まあ、でも、なんとかなるでしょ。

 最初はそんな風に、どこか気楽に考えていたところもあったかもしれない。結果から言うと、その見通しはハニトーよりも甘々だった。

 覚える仕事は山のようにあった。家事はある程度こなせる方だと思っていたけれど、同じ掃除や洗い物でも飲食店となるといろいろ勝手が違う。

 掃除についてはまず、箒やモップの使い方から学ばなければならなかった。洗い物では専門的な器具や細い持ち手のカップを洗うのに神経を使った。果てはテーブルの片づけにゴミ出し、店が混んでくると注文の聞き取りさえ急に振られる。もう頭がパンク寸前だった。

 コーヒーを淹れたり、フードメニューを調理したりといったことは新入りのあたしには荷が重い。これらは必然的に世野くんが今まで通りこなした。だから彼の定位置がカウンターの中になるのは分かる。だけどそれをいいことに、安全圏から一方的に指示を飛ばしているように思えてならないのだ。

 あたしばかりが店内を縦横無尽に行き来している。それこそが一つの罪滅ぼしなんだと言われたら、確かにそうなのかもしれないけれど……やっぱりどこか納得いかない!

『フィアンケット』で働き始めてから三日目。

 今日は開店からほとんどお客がなかった。世野くんはカウンターの中で雑誌をめくっていて、そのうち優雅にコーヒーまですすり始める。あたしは窓拭きで腕をぱんぱんにさせているというのに。

 もういっそ全部放り出して逃げてしまおうか――そんなことを考え始める。

 あたしの罪は、出るところに出て、しかるべき法律や制度に則って裁いてもらった方がいいのではないだろうか。その場合、あたしがどんな罪状や刑罰を言い渡されるのかはよく分からないけれど、このままじゃ基本的人権まで剥奪されそうだ。徐々に要求がエスカレートして、この先本当に靴舐めや首輪に行き着かないとも限らない……。

「おい、どうした。手が動いてないぞ」

 まただ。容赦ない世野くんの声。血も涙もない奴なんだ、あいつは。

 ――よし、決めた。今日だ。今日お店を閉める時に世野くんに言おう。やめさせてもらいます、って。決めた。もう決めた。決めたといったら決めたぞ。やってられるかっての。

 そこへ――。

 からんころん。

 ドアベルが軽快な音を立て、来客を知らせた。戸口で帽子を脱ぐのは、気のよさそうな初老の男性だ。

 世野くんはさっと立ちあがり、如才なく、

「いらっしゃいませ」と会釈。

「こんにちは、終くん。おじいさんの経過は順調かい?」

「おかげさまで。病院が退屈で仕方ないみたいですよ」

「それは何よりだ」

 そんなやりとりの雰囲気で顔なじみだと分かる。

 ここ数日、『フィアンケット』で働いてみて実感した。この店は連日長蛇の列ができるような店では決してない。だけど、こんな風に常連さんが足繁く通う憩いの場なのだ。だからこそ店を閉めることになれば、大切な拠り所をなくしてしまう人が大勢出てくる。それが忍びなくて、世野くんは午後からでも店を開けようと頑張るのかもしれない。

 あたしは二人が話し込んでいる間に窓拭き道具を片づけ、手洗いを済ませた。どうせここに身を置くのも今日までだし、お客さんの対応を買って出てやろうと思ったのだ。

 あたしが急いで前に出ると、初老の男性はあたしに目を向けた。

「おや、新入りかい。頑張ってるね」

 何気ない言葉が胸にちくりと突き刺さる。新入りだけど、あなたと会うのはこれが最初で、多分最後です。

「いらっしゃいませ。小坂といいます」

「小坂さん。よろしくね」

 そう言って笑いかけてくれるのは素直にうれしかった。同時にちょっと寂しかった。

「えーと……あ、こちらのお席にどうぞ」

 いかんいかん、切り替え切り替え。

 あたしは男性を奥のテーブル席に案内した。その後、一度カウンターへ行き、世野くんが用意してくれたお冷とおしぼりを受け取る。テーブル席に舞い戻り、それらをお出しして「お決まりでしたら、注文をお伺いします」と。よし、完璧だ。

「それじゃブレンドを一つもらおうか」お客さんのオーダーはなんてことのないものだったけれど、彼は続けてあることを要求してきた。「あと、今日は友人が急な用事で来られなくてね。もしお手隙ならお手合わせ願えるかな」

 あたしは言葉に詰まった。

 お手合わせ――なんの? と頭をひねりかけ、すぐに思い至る。ここでは一つしかない。チェスだ。現に男性はご丁寧にテーブルの上のチェスセットを指さしている。

『フィアンケット』はチェス喫茶を掲げるだけあって、背の低い丸テーブルにはもれなくチェスセットが置かれている。お客さんもほとんどが腕に覚えのある愛好者で、連れ同士で対局したり、本を見ながら駒を並べている様子を見ることは今までも何度かあった。だけど、そうか。橘子叔母さんがマスターを指名していたように、店員と指すパターンもあるのだ。

 あたしがおろおろしていると、さっと横から影が躍り出る。世野くんだ。

「ああ、失礼しました。彼女は雑用専門の小間使い――もとい、新米の見習いなので、チェスは指せません」助け舟はありがたかったけど、何言いかけてんの。「変わり映えしませんが、僕でよければお相手しますよ」

「終くんは強いからなあ。お手柔らかに頼むよ」

 そうしてごく自然に二人の対局が始まる。

 あ、やっぱり世野くん、チェス指せるんだ。チェス喫茶のマスターを務めるくらいだから当然ではある。そういえば、三日前にこのお店で彼と思わぬ鉢合わせをした時も、盤をにらみながら駒を並べていた。

 だけど、世野くんが誰かを相手にチェスを指すところを、あたしがじかに見るのはこれが初めてだった。

 背筋を凜と伸ばし、チェス盤と向き合う彼。

 ――その瞳に、青い炎が宿った気がした。

 真剣な眼差し。あたしに悪態をつくときの仏頂面や、どこか芝居がかった接客スマイルとは比べ物にならない。授業中の彼とも違う。というか、授業中の彼はむしろいつもどこか退屈そうに頬杖を突いていることが多かった。

 けれど、今は。

 深く深く集中しているのが分かる。

 周りの空気さえ研ぎ澄まされていくみたい。

 何かに焦がれているような、何かを欲しているような、そんな切実さすら感じる。

 次の瞬間、しなやかな指が駒をつかんだ。迷いのない手つきに導かれ、駒たちは盤上を行き来する。まるで意思を得て、舞い踊るかのように。

 正直、目が離せなかった。

 学校では決して見られない世野くんの姿。

 ここでは心に焼きつけて独り占めできる。

 あたしは知らず、数分前の決め事も反故にして、こんな風に思ってしまうのだった。

 ――もうちょっとだけ、このままでもいいかな、なんて。

<第7回に続く>