悔しがる顔を想像すれば、大抵のことは乗り切れた……チェスを覚えて人使い最低のマスターを打ち負かしてやる‼/チェス喫茶フィアンケットの迷局集⑦
更新日:2021/4/26
珈琲とチェスを楽しむ喫茶店「フィアンケット」。そこでバイトを始めた高校生の柚子子と、クラスメイトにして代理店長の世野が、不可解な謎を解き明かしていく“日常本格ミステリ”。天真爛漫な柚子子と冷静沈着な世野の凸凹コンビっぷりに、思わず胸キュン!? 〈第3回双葉文庫ルーキー大賞受賞作〉
慣れとは恐ろしいもので。
いつの間にか四月も最終週に差しかかり、『フィアンケット』で働き始めてから二週間が経とうとしていた。
コツさえつかんでしまえば、掃除や洗い物などの仕事は前より苦ではなくなった。あとは接客だけど、元々人と関わることは好きだから、こちらはむしろ楽しめているくらいだ。既にお客さんの中にはあたしの名前を覚えて、気さくに呼びかけてくれる人もいる。
世野くんの人使いは相変わらず荒かった。だけど、これに関してもあたしは一つ大きな意趣返しを思いついたのだ。
それは――チェスを覚えて、いつの日か世野くんを負かすこと。
彼がめちゃくちゃ悔しがる顔を想像すれば、大抵のことは乗り切れた。もうこっそりチェスの勉強も始めている。
知的遊戯とはほど遠い人生を送ってきた。チェスだって何度か覚えようと挑戦してはみたけれど、その度に飽きて放り出してきた。でも、こうやって目標を立てると俄然燃えてくる。一人で本を読んでいるだけではぴんとこなかったイメージも、実際の対局を目にする機会があるだけで全然違う。今回は続けられるかもって手応えだって感じている。
それに。
あたしは知りたいと思った。
世野くんがあそこまで没頭するチェスとは一体どんなものだろう。そこにはどんな世界が広がっているのだろう。世野くんとチェスを指せたら、もしかしたら同じ景色が見えるかもしれない。世野くんの、あの眼差しが見ているものを、あたしも――。
「ゆーずちゃんっ」
「わっ」
教室でつらつらと最近の出来事を思い返していたら、横合いから突如脇腹をつかまれて飛び上がった。夢想は中断。あたしは脇腹をもみしだく手を捕縛してつねり上げる。
「いたたた。ゆずちゃん、ごめんって」
「だーめ。いつもやめなさいって言ってんのに。懲りないんだから」
クラスの女子の面々とはそれなりに仲良くやっているけれど、こんなエキセントリックなじゃれ方をしてくる子は一人しかいない。
「もう懲りたー。懲りましたー。ぎぶぎぶー」
「もう、繭ってば」
解放してあげると、えへへーといつもの笑顔。
彼女はあたしの親友、月待繭だ。かわいらしい垂れ目が印象的で、色素の薄い髪はゆったりと長い。ふんわりした雰囲気の持ち主だけど、絡み方や会話のテンポが独特で面白くって妙に気が合った。高校で初めて知り合ったのに、あたしたちはもうすっかり気の置けない仲だ。
「お昼ごはん、一緒に食べよ」
そう促され、午前中の授業が終わっていたことに気づく。
「おっけー」
あたしがそう答えると、繭は机をくっつけて、さっそくお弁当を広げた。
ランチ開始から数分後、「そういえば」と繭は先ほどあたしの脇腹をつかんだ右手を出し、感触を再現するようにもみもみと動かしながら尋ねてくる。「ゆずちゃん、もしかして痩せたー?」
あたしは危うく玉子焼きを喉に詰まらせそうになった。ペットボトルの緑茶で一気に流し込んでから、勢い込んで聞く。
「え、それ真面目に言ってる?」
「まじまじの大まじ。もみもみダイエットの成果だね」
「いや、そんなもんあるか!」
なんてツッコんだけど、痩せたって言われて嫌な気はしない。というか、普通にうれしい。実際はそういう繭の方が、あたしよりはるかにほっそい上に出るとこ出てる。でもそれを思うとちょっと、いやかなりへこむから、あたしは自然にウエストが引き締まった原因について考えを巡らせることにした。
思い当たることは一つ。
「……あれだけ毎日、お店の中を走り回ってればね」
「なになに、思い当たることあるの?」
口に出していないつもりだったけれど、つい漏れてしまっていたらしい。繭に追及されてあたしは口ごもった。
「えーと……あ、そうそう、実は知り合いのお店の手伝いを始めたの」
本当のことはやっぱり打ち明けられなくて、あたしはチェス喫茶で働きだしたとだけ言ってごまかした。そのこと自体は嘘ではない。
すると繭は意外にも食いついてきた。
「そうだったの! ていうか、チェス! ゆずちゃん指せるの?」
まあそう思うよね、普通は。あたしは首を横に振る。
「ううん、全然。絶賛勉強中。え、もしかして繭、分かる?」
「だめだめ、わたしもさっぱり」体の前で両手を振った彼女は、あ、でも、とつけ加えた。「実は将棋ならやってたことあって。どう違うんだろうなーと思ったの」
「繭が将棋……」あたしは将棋盤に向かう、なぜか艶やかな着物を着た繭をイメージした。「意外、って一瞬思ったけど、割としっくりくるかも」
「えへへー。近所のお姉さんに教えられてけっこう小さい頃から指してたんだよ。この前将棋部の見学にも行くだけ行ってきたの。なんとなくまだ迷ってたんだけど……ゆずちゃんがチャレンジしてるの聞いてたら、わたしも一つ真剣にやってみたくなってきちゃった」
「いいと思う! あたしは将棋もからっきしだけど、チェスと将棋ってよく似たお隣さんっていうか、親戚みたいな近しい感じがするし。一緒に頑張ろうよ!」
「うん! わたしもゆずちゃんの働いてる喫茶店、いつか遊びに行っていい?」
危うく唐揚げを喉に詰まらせそうになった。ペットボトルの緑茶――はとうに飲み干してしまっており、胸元を必死でたたいていたら、繭が温かい紅茶を水筒のカップに注いで差し出してくれた。
「ぷはあ、助かった」
「もしかして嫌だった?」
「ううん、そういうわけじゃ……でもまだちょっと知ってる人に見られるのって恥ずかしくて」あたしは妥協点を探りつつ、提案する。「慣れた頃に必ず招待するから。それまでもう少しだけ待ってて。ね?」
「分かった、楽しみにしてる!」
繭は輝くような笑顔でそう言った。