ここ数日毎日来る2人は何者⁉ “終局の盤面”から逆算して戦い様を想像するも…「これは妙だ」/チェス喫茶フィアンケットの迷局集⑧

小説・エッセイ

更新日:2021/4/27

チェス喫茶フィアンケットの迷局集
『チェス喫茶フィアンケットの迷局集』(中村あき/双葉社)

 珈琲とチェスを楽しむ喫茶店「フィアンケット」。そこでバイトを始めた高校生の柚子子と、クラスメイトにして代理店長の世野が、不可解な謎を解き明かしていく“日常本格ミステリ”。天真爛漫な柚子子と冷静沈着な世野の凸凹コンビっぷりに、思わず胸キュン!? 〈第3回双葉文庫ルーキー大賞受賞作〉

 今日も放課後は『フィアンケット』へ。

 夢中で仕事に打ち込んでいたら、いつの間にか窓の外はすっかり暗くなっていた。今日はいつもに比べてお客さんが多く、さばくのはそれなりに大変だった。それでも大きなミスなくこなせたのは成長の証かもしれない。

「ふう、今日はそこそこ忙しかったな」

 閉店時刻の間際、あたしは自身の仕事ぶりに満足しながら独りごちた。それを地獄耳が聞きつけたらしい。バーカウンターの向こうから手が伸び、世野くんがステンレスのお盆をあたしの頭に不時着させた。

「いたっ」

「何終わった気になってんだ。まだお客がいるだろ」

「むう、だからってお盆でたたくことないでしょ」

 頭を押さえながら恨めしく暴君をにらむ。

 まあ実際彼の言う通り、お店には一組のお客さんが残っていた。一番奥の席、割と若めなお兄さんが二人。だけどぼちぼち彼らも帰り支度を始めている。

 先に上着を腕にかけた、ひょろりとしたお兄さんが革靴を鳴らして歩いてくる。こちらに背を向けて座っていた方だ。

 あたしはさっとレジに入った。

「ご馳走様。いや、大勝だった。先手で有利な白番で本気を出しすぎてしまったかもしれないな」

 上機嫌で財布を取り出す。勝ったのにお会計は彼が持つらしい。クレジットカードでの支払いだったので、控えにサインを促すと、彼は面倒がる様子もなくさらさらと右手でペンを動かした。

 あたしは笑顔を維持しながら、もう一人の到着を待つ。こちらは壁を背にして座っていた、ややぽっちゃりとした人物だ。何やらもたもたとしているようだったので、あたしはレジから、

「後片づけはけっこうですよ。こちらでやりますので」と声をかけた。

 ほどなくぽっちゃりさんはぺこぺこしながらやって来る。去り際、「じゃあね」と一言投げかけてくれたのがうれしくて、あたしは「よかったら」とレジ横に置いてあるキャンディを二つ手渡しする。彼はぱっと顔を輝かせ、先に店を出ようとしていた連れを呼び止めると、二つのうち一つを右手で投げ渡した。

 ありがとうございましたーと腰を折ったあたしの背中に、世野くんの独白が降ってくる。

「あの二人、ここ数日毎日来てるな。ついこの間、初めて来店したと思ったが」

 あたしも彼らの顔は覚えていた。

「もしかしてあたしのファンだったりして」

 軽口で言ってみたところ、完全に無視された。おーい、反応がないとさすがに恥ずかしいんですけどー。

 それでもこれ以上余計なことを言って、神経を逆なですることになったらそれはそれで大変だ。おとなしく片づけを始めようと、あたしは奥のテーブルに向かった。

 椅子が出ていたのでまずしまってから、コーヒーカップに手をかけた。その時、自然に卓上のチェス盤の様子に目がいく。

 これは最近の癖になっている。終局の盤面から逆算して、戦いの様相を想像してみるのだ。実際なかなかうまくいかないし、身になっているのかといえば怪しい。それでも勉強の一つだと思うようにしていた。

 ――って、え? なんだこれ。

 突如違和感に囚われた。一見、なんの変哲もないように見える終局図。だけど、やけに引っかかる感じがする。あたしは注意力を上げて盤面を見下ろした。

 そのまましばらくの間固まっていたらしい。世野くんがカウンターから出てきて、あたしの背後で立ち止まる気配がした。

「おい、何もたもたやってんだ」

「……『フィアンケット』って店名の由来」あたしはそう口に出していた。「最近知ったんだけど、チェスの用語なんだよね。初期配置の時にナイトの前にあるポーンを進めることで、その空いたスペースにビショップが収まる。その形がフィアンケット。対角線の斜めの筋を広く見渡した、いわばここから勝負を始めるぞっていう初めの一歩……」

 あたしがそう言って振り返ると、彼は目を丸くしていた。

「世野くん?」

「人の言葉を話すチンパンジーを見た気分だ」

「驚きすぎだよ! チェス喫茶で働いてればそれくらい覚えるよ!」あたしは気を取り直して。「縁起がいいし、とても素敵な名前だと思う。世野くん、今のを踏まえた上でこの盤面を見てみてくれる?」

 あたしがスペースを空けると、何か言いたげな表情の世野くんが、それでも黙って数歩歩み出た。

 盤を覗き込み、それからすぐに首を傾げる。

 そしてあたしが一度しまった椅子を引き出し、そこにどっかと座ってから、ようやくぽつりと呟いた。

「確かに……これは妙だ」

<続きは本書でお楽しみください>