人生は苦いからこそ、甘いものが必要。疲れた心に沁みる、老舗ホテルのアフタヌーンティー
公開日:2021/4/20
学生時代、数日間だけケーキ屋でアルバイトをしたことがある。寂れたショッピングセンター内の小さな店だったが、地元のお客さんにはそれなりに人気があったようだ。真剣な顔でショーケースを覗き込む子ども、照れくさそうにケーキを選ぶ中学生男子グループ、いつも大量のシュークリームを購入していくおばあさん。思いのほか多かったのは、ケーキをひとつだけ買うお客さんだった。いたって普通の素朴なケーキだったが、それはきっと小さなごほうび。白い箱を持ち帰った先では、心がほっとゆるむ特別なひと時が営まれていたに違いない。
古内一絵さんの新作『最高のアフタヌーンティーの作り方』(中央公論新社)も、頑張る人々へのごほうびのような一冊だ。人気作「マカン・マラン」シリーズでは“夜食”で読者の心を癒してきたが、このたび供されるのはアフタヌーンティー。都内の老舗ホテルで働く29歳の遠山涼音、同じホテルのシェフ・パティシエである飛鳥井達也、アフタヌーンティーを作る側に置かれたふたりの視点で物語が紡がれていく。
涼音は、産休に入った先輩に代わり、念願かなって憧れのアフタヌーンティーチームに配属されたばかり。気合を入れて新たなアフタヌーンティーの企画書を作るが、達也からは「目新しければいいってもんでもない」とあっさり却下されてしまう。そんな中、イギリスから来た有名美人ジョッキーが、急遽涼音たちが働くホテルを訪れることに。対応を任され、準備を進める達也だが、涼音は彼の様子がどこかおかしいことに気づく。やがて明かされる達也の“秘密”。続く2章では達也の視点に切り替わり、彼の過去、“秘密”を抱えるがゆえの生きづらさがひもとかれていく。
生きづらさを抱えるのは、達也だけではない。作中では、彼のほかにもさまざまな事情を抱えた人々が登場する。中でも、古内さんが優しいまなざしを注ぐのが、働く女性たちだ。会社の人間関係になじめず、ソロ・アフタヌーンティーで心を満たす常連客。キャリアを一時中断して産休を取り、ワンオペ育児でヘロヘロになっている40代の先輩。どれほど優秀でも正社員になれない中国出身の契約社員。好景気を知らずに育ち、自分は「選択肢のない世代」と話す20代女子。彼女たちの声を聞き、涼音は時に打ちのめされ、時に自分の未来を不安視する。
そんな涼音を勇気づけるのが、彼女の祖父の言葉だ。祖父は元戦災孤児で、幼少期はかっぱらいや掏り、追い剥ぎをしながら地を這うようにして生きてきた。そんなある日、老婆の荷物を奪おうとした彼を、美しい女性が制止する。彼女から小さな牡丹餅をもらった少年時代の祖父は、その衝撃的なおいしさ、そして彼女の尊い優しさに人生を救われる。
「現実なんてのは、いつだって、厳しいもんだ。それが分かったうえで、美しい面を見るのも一つの覚悟だ」
祖父の言葉は、涼音の胸にじんわりと沁みわたる。祖父が語るように、人生は苦い。だからこそ、甘いものが必要だ。働く女性が抱える問題も、達也が抱える生きづらさも、そう簡単にはなくならないだろう。それでも物事の美しい面を見ながら一歩ずつ前進し、時々はごほうびのスイーツで心を癒せば、充実した人生を送れるのではないか。涼音や祖父の背中は、そんな生き方を教えてくれる。
アフタヌーンティーやスイーツは、私たちの日常にささやかな喜びをもたらすごほうびだ。そして、この本もおいしいお菓子と薫り高い紅茶のように、私たちの心を豊かに満たしてくれる。ページを開けば、とっておきのひと時が待っている。
文=野本由起