姉という名のUMAを連れて散歩していたら/一穂ミチ『スモールワールズ』②

文芸・カルチャー

公開日:2021/5/1

6つの家族の光と影を描き出す6編からなる連作短編集『スモールワールズ』。本書に収録された1編「魔王の帰還」を全6回でお届け。「魔王」とあだ名される姉がなぜか実家に出戻ってきた! 高校生の弟はそんな姉に翻弄されながらも姉の「秘密」が気になって…。

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スモールワールズ
スモールワールズ』(一穂ミチ/講談社)

 姉の鉄拳をどうにかかわしてチャイムと同時に化学室に走り込み、腫れ物扱いのまま、目の前で進行していく実験を眺めていた。菜々子とは別の班で、話すチャンスはなかった。昼休みも午後の授業中もずっと心に引っかかりつつ、見た目と裏腹に小心な鉄二は気安く女子に話しかけられない。自分が動くといやでも目立つから却って迷惑かもしれない、怖がられるかもしれない、改まってお礼なんか言ったら「狙ってんの? キモ」って引かれるかもしれない……せめて人目のない場所でふたりきりになれば切り出せるかもしれないがそんな機会が巡ってくるはずもなく、時折ちらちらと菜々子を窺うので精いっぱいだった。彼女はたいてい頬づえをつき、休み時間ならイヤホンで何かを聴いている。眼差しは特に寂しそうでも退屈そうでもなく、曖昧に宙を漂っていた。鉄二と違ってごく普通の外見で、悪い言い方をすれば量産型のJKにしか見えないのになぜ孤立しているのか、そしてなぜわざわざ声をかけてくれたのか、疑問を解明できないまま放課後を迎え家に帰った瞬間「早い!」と姉の叱声が飛んでくる。帰りが遅くて叱られるのならともかく、納得いかない。

「まだ四時にもなっとらんぞ」

「いや別にやることねーから」

「ほう、じゃあわしにこの町を案内せえ」

 帰宅早々に再び引っ立てられてしまった。

「体力バカが暇を持て余すとろくなことせんからのう、振り込め詐欺の受け子にでも手ぇ出されたらおえりゃーせん」

「するか!」

 姉という名のUMAを連れての散歩など恥ずかしいことこの上なかったが、しばらくはここにいるというのだから早めに目撃情報を拡散してもらったほうが得策かもしれない。

「案内って言われても、春引っ越してきたばっかだから俺も知らねえし、ここらへん特に何もねえぞ」

 父の転勤に伴って三月から移り住んだ地方都市にあるものといえば、駅前に父が働く大型スーパーとパチンコ屋、後はしょぼい商店街と、小高い丘の上の城址に当時の遺構や石垣が残っている程度だ。城下町の風情を残す、といえば聞こえだけはいい木造の一軒家がこぢんまりと並び、それが途切れるとあとはひたすら田畑や池ばかりの景色が続く。

「えれえため池が多いのう」とぶらつきながら姉が言う。

「ぼうふらがわくぞ」

「ため池じゃなくて養殖池だってよ。このへん、金魚の養殖やってるから」

 一応、「金魚の里」として駅ナカのコンビニにそれらしい土産物が売っていたり、マンホールに金魚が描いてあったり、海も山もない土地の唯一のセールスポイントではあるらしかった。そのまま商店街をそぞろ歩いていると姉が「おっ」と急に足を止める。

「何だよ」

 見てみい、と指差した先は古ぼけた駄菓子屋で、昭和という時代にかすってもいない鉄二にも何ともいえない懐かしさを呼び覚ます佇まいではあったが、もう駄菓子で喜ぶ年じゃない。

「いらねえよ」

「ちゃう、店の奥見てみい」

 ガラスを嵌めた引き戸が半分開いており、小さな飴やらガムやらの商品がひしめき合っているのが覗けた。そしてそのさらに奥の小上がりに、店番らしき人間がちょこんと座っている。

「お前の同級生じゃろうが」

「あ」

 言われてみれば確かに菜々子だった。私服に着替えていたが、どこを見ているのかいないのか謎な目つきは変わらない。

「ちゃんと礼を言うたか」

「いや、えっと」

「このぐずが」

 姉は否応なく鉄二の手を引っ張り、店の中に引きずっていった。

「ちょっと、姉ちゃん!」

「おう、元気にしょーるか?」

 いきなり知り合いレベルの挨拶をされ、菜々子は目を丸くして姉と鉄二を見つめた。鉄二は限りなく消極的な「こんにちは」を発するのがやっとだ。

「昼間はうちの弟が世話になったのう、ほれ、ちゃんと言え」

 どんっと肩を突かれて目の前に押し出されると、女子のつややかな髪の毛や薄い肩、鉄二の握り拳より小さな膝頭が間近で、一気に顔が熱くなるのが分かった。

「ど、どうも、その節は……」

「何でありがとうがさらっと言えんのじゃ!」

 反対の肩にパンチを入れられ、痛みに呻くと菜々子が「いいです」と慌てて立ち上がった。

「そんな大したことじゃないですから……森山くん、お姉さんいたんだ。知らなかった」

「ゆうべ帰ってきたところじゃ。鉄二はこんなイキったナリじゃけど、女とろくにしゃべったこともないようなヘタレじゃけ、怖がらんと仲ようしてやってくれ」

 姉ががばっと頭を下げても、菜々子よりまだ頭が高い。鉄二はいたたまれなさにこの場から逃げ出して十キロくらいダッシュしたくなったが、菜々子はくすっと笑いながら「住谷菜々子です、よろしくお願いします」とお辞儀をし返した。

「よし、よかったのう鉄二。ここは菜々子の家か?」

「はい。おばあちゃんがやってるんですけど、最近ちょくちょく入院するようになって」

「そうか、わしらも売り上げに貢献せにゃならんの」

 姉が棚を物色していると、数人の子どもが店内に入りかけてびくっと足を止めるのが見えた。むしろ営業妨害じゃねえかと思ったが、彼らは様子見しつつそろりと忍び入り、姉が何の反応も示さないのを確認すると安心したのか、ゲームの話をしながら小袋のスナック菓子やチョコレートを次々摑んで買っていた。ああ、あれまだ売ってるんだ、俺も昔好きだったな、鉄二がしみじみとその光景を眺めていると出入り口のところで子どもたちはくるっと振り返り、小さく、しかしはっきり「やりまーん」と言った。

 目と耳の両方を疑った。しかし聞き間違いじゃないし、菜々子に向けた小馬鹿にするような笑顔も見間違いじゃない。その証拠に、菜々子の目からふっと生気が失せるのが分かった。何だこいつら。愕然とする鉄二をよそに、姉の反応は早かった。

「お前ら何言いよんならっ!!」

 店じゅうに轟く怒鳴り声を上げると、羆に遭遇したように固まるガキどもに「今、何ちゅうた」と詰め寄った。鉄二でさえおっかないのだから、いわんやちびっ子をやで、今にも失禁しそうに膝をふるわせながらそれでも年長らしきひとりが「やりまん、です……」と蚊の鳴くような声で答える。

「意味分かって言うたんか」

「知らない、お兄ちゃんが言ってたから」

「ほなお前、家帰って自分のおかんに言うてみい。分からんのやったら言えるやろ」

 そう、確と理解していなくても、悪意のある言葉だと察しはついている。子どもはぎゅっと唇を噛んで俯いた。その後ろでは涙を浮かべる者もいて、鉄二は警察に通報されやしないかと心配になってきた。どう説明しても十対ゼロでこっちが悪者にされる。しかし姉はお構いなしで「自分の母親に言えんことをよその女に言うてええわけなかろうが」と叱る。

「お前の兄ちゃんがいけん。でもお前もいけん。今度兄ちゃんがその言葉使うたらわしが締めちゃるけえ、三丁目の森山まで来るように言うとけ。分かったか?」

 がくがくと何度も頷いた子どもたちが、姉の「よし、行ってええぞ」というひと声で一目散に逃げ去っていく。鉄二ははーっとため息をついた。あいつら言うかな、言うよな、駄菓子屋でとんでもない怪物に遭遇したって。狭い町で瞬く間に広まるだろう恐怖伝説を思うと憂鬱で仕方なかったが、張本人はけろっとして菜々子に向き直る。菜々子は困惑を浮かべ、尋ねた。

「わたしがまじでヤリマンだったらどうします?」

 姉は動じず「どうもせん」と答えた。

「ほんまのことやったら何言うてもええ、ちゅうことにはならんじゃろ。何じゃ、ヤリマンなんか」

「違います、むしろ処女です」

「そうか、うちの弟も童貞じゃ」

「おい関係ねーだろ!」

 鉄二が焦って抗議すると、ようやく菜々子の表情が緩み「ありがとうございます」とぺこっと頭を下げた。

「おばあちゃんが店番してる時、ちょこちょこ万引きがあったみたいなんです。目も耳も弱ってるから……わたしがいると監視厳しくて、うまくいかないからむかついてるみたい」

「性根を叩き直さないかんの、わしが店番してやろうか?」

「やめろ、潰れるぞ」

「しかしものの値段を覚えるのが大変そうじゃのう……あの向こうは物置か何かか?」

 棚の奥まったところにドア一枚分の隙間があり、カーテンが吊るされている。

「あ、そこ、金魚すくいのコーナーです。やってみます?」

 菜々子がじゃっとカーテンを開け「どうぞ」と促す。祭りの屋台でよく見る、青い長方形の水槽があり、赤や黒の小さな金魚がそよぐように泳いでいた。

「さっきのお礼に一回サービスします」

 姉にポイの入ったプラスチック容器を手渡すと、菜々子は網を取り出し、水面で腹を見せて浮いていた数匹の金魚をさっと回収して床に落とした。剝き出しのコンクリートに排水溝が作られていて、そこから流れる仕組みになっているようだ。

「よし」

<第3回に続く>