夫のもとになかなか帰らない姉。弟が姉の部屋で見つけた驚きのもの/一穂ミチ『スモールワールズ』④
公開日:2021/5/3
6つの家族の光と影を描き出す6編からなる連作短編集『スモールワールズ』。本書に収録された1編「魔王の帰還」を全6回でお届け。「魔王」とあだ名される姉がなぜか実家に出戻ってきた! 高校生の弟はそんな姉に翻弄されながらも姉の「秘密」が気になって…。
森山姉弟は週三のペースで菜々子の店に通い、金魚すくいの練習をすることになった。菜々子によると、金魚すくいの大会を催す都市は全国にいくつもあり、その中では小規模なほうらしい。自分たちが出入りするせいでほかの常連客を蹴散らす結果になるのでは、と鉄二は危惧したが、子どもたちは初めおそるおそる、すぐに堂々とやってきて姉と鉄二に慣れた。どころか姉を見つけると「魔王だ!」と子犬のようにじゃれついていく。存在自体がアトラクションな姉はSwitchに負けず劣らず面白いのか、肩車をねだったり隠れんぼに誘ったり、その流れで鉄二までキャッチボールにつき合わされる日もあった。高二男子の放課後の過ごし方として正しいのか甚だ不安ではあったが、ちびっ子相手とはいえバットの振り方を教えて尊敬の眼差しを集めるのは悪い気分じゃなかった。学校では相変わらず遠巻きにされていたが、菜々子とだけは話せるし。
金魚すくいは、やってみると難しい。姉も鉄二も単純にでかいので、ポイを水につける動作ひとつとっても魚たちを警戒させてしまうようだった。さっと身を翻す赤や黒の、すくいやすそうな塊を見つけてそこをめがける動きもまた水流を乱して群れがばらけてしまう。やわらかくさりげなく、容れ物の中へ金魚を導くのがいちばんうまいのは菜々子だった。しなやかに動く白い手に水面が網目の影を落として揺らめくさまを、美しいと思った。空がきれいだとか海がきれいだとか単純に思うのとは違って、自分の感情に自分で気恥ずかしくなる、生まれて初めてのひそやかな気持ちだった。
野球漬けの人生から野球が取り除かれ、ぽっかり空いた穴をぼんやり眺めているだけだった日々が、他愛なくささやかなものたちで、少しずつ、確かに埋められていく。後ろ髪を引かれるような寂しさと安堵の両方を感じた。
梅雨のまっただ中、六月の終わりのことだった。風呂上がりに喉が渇いて台所に向かうと、母と姉の話し声が聞こえてきた。
「真央、あんた、勇さんとはほんとに駄目になっちゃったの」
「何じゃ、急に」
「急じゃないわよ、単なる夫婦喧嘩かもしれないと思って様子見てたら、全然帰る気配ないから……何があったか知らないけど、勇さんはいい人じゃないの。あんたを嫁にもらおうなんて人類は後にも先にもきっとあの人だけよ?」
「それが娘に向かって言うことか」
「母親だからこそ心を鬼にしてるの! 悪いこと言わないから仲直りしなさいよ」
「ええんよ」
姉は、ぽつっとひと言だけ答えた。それは雨滴が落ちてきたような響きで、鉄二は思わずぴゃっと首を縮め、それから足音を殺して二階の自室に上がった。どうしてだろう、姉の顔を見るのが怖かった。ええんよ、ってどういう意味だろう。ベッドに座り込んでしばらく考えていると、廊下を挟んで向かいの部屋に姉が戻ってきたので思いきって襖の外から声をかける。
「姉ちゃん、風呂空いた」
「おう、鉄二、ちょっと入れや」
姉は畳の上であぐらをかき、どう見ても業務用な甲類焼酎のボトルを片手に晩酌をするところだった。山賊の宴か?
「酒がでけえよ……」
「座ってちょっと相手せえや、飲めとは言わんけぇ」
仕方なく正面に腰を下ろし、グラスに酒を注ぐ。姉の手の中にあると、ロックグラスもお猪口に見えた。
「こないだの、暇じゃったけぇ、菜々子に教えてもらった金魚の競りを見に行ったんよ」
「へえ、何か面白かった?」
「全然分からん」
焼酎をストレートでぐびっと飲んで、姉は笑った。
「プールみたいな広い水槽に板が渡してあって、金魚がびっしり入った木箱がぎょうさん浮かんどるんよ。そしたら、水上プレハブ小屋みたいなとこにおっさんらが集って、『小赤』やら『和金』やら……六円とか十円とか五百円とか幅のある値段が飛び交っとって、素人にはおえりゃーせん。プールの外には金魚が入ったビニール袋が置いてあって、でかいのもおった。ありゃ鯉なんかのう」
金魚と鯉は違うのだろうか。一定以上の大きさのイルカがクジラに分類されるようにざっくりとしたものなのか、それともはっきりと別の種族なのか。
「ビニール袋の中じゃけぇ、水が少ないんよ。身体全部浸かりきらんと口ぱくぱくさせとって……何や、わしみたいじゃな、て思うた」
「何だそれ」
姉の言わんとすることが真剣に理解できず、鉄二は首をひねった。大体、普通の人間が金魚ならお前はピラルクあたりだぞ。
「分からんでええ」
姉はそれ以上説明しようとはせず、手酌で二杯目の焼酎を呷った。
あんな魔王にも、一応それなりに女心らしきものがあるのだろうか。鉄二は昼休み、菜々子に話してみた。
「お姉さんの旦那さんってどんな人?」
「んー……ひと言で言うと、作画が違うって感じ」
「何それ」
「だから、姉ちゃんが劇画だとすると、新聞の四コマみたいな」
「それ両方ディスってない?」
「違うよ」
姉の夫が挨拶に来た日のことを、よく覚えている。鉄二は中学二年生だった。さぞかし裏ボスの風格にあふれたたくましいお相手に違いない、と両親とともに身構えていたのだが、現れたのは小柄でひょろっとした、姉のくしゃみ一発で吹っ飛びそうな風貌の男だった。なのに名前が勇、と聞いた時には吹き出しそうになった。魔王と勇者、キャラに無理ありすぎだろ。しかも出会いは合コンだという。普通かよ。
─いつもは気後れして行かないんですが、テニスのシャラポワみたいな女性が来る、と聞いて、どうしても興味が湧いて……。
シャラポワってそれ、身長だけの話な。合コン幹事の悪ふざけとしか思えなかったが、勇は「勇気を出してよかったです」と色白の頬を赤らめた。信じがたいことにどうやらガチだ、と父母弟の三人は視線で語り合った。そこからは何の障害もなく「気が変わらないうちにどうぞどうぞ」と前のめりに両者を祝福し、姉と勇は晴れて夫婦になった。式や披露宴はしなかったし、鉄二が高校から寮に入ったのと、姉もトラックドライバーの仕事が不規則だったため、勇とは数えるほどしか顔を合わせていない。でもそのたびぎこちなく「野球が得意なんだって?」とか「スポーツ推薦なんてすごいよ」と話しかけてくれたので、印象はよかった。
「確かにちょっと変だよねえ」
腹の足しになるのか謎なサイズの弁当をつつきながら菜々子は言った。これで食べ終わるスピードは鉄二より遅いのだから、女子とは不思議な生き物だと思う。
「あのお姉さんがそんな筋の通らない別れ方するとは思えないもん。旦那さんにこっそり連絡取れないの?」
「無理。俺、勇さんの電話番号とか知らないし、親に訊いたら絶対姉ちゃんに話が行くだろうし」
「んー、じゃあもうお姉さんにずばっと訊いてみなよ。弟になら言えるってこともあるかもしれないし」
姉の夫婦関係について突っ込むのは、いろんな意味できつい。それに、もし勇の浮気が原因だったりした日には正直慰めようもない。
「住谷さんから話してくんない」
「それは距離感がおかしすぎるよ」
解決策が見つからないまま、期末試験が近いので(どうせ勉強などしないが)駄菓子屋に寄らずまっすぐ帰ると母が話しかけてくる。
「おかえり鉄二、爪切り見なかった爪切り」
「知らねえ」
「じゃあ真央の部屋かな、ちょっと探してきて。今お姉ちゃん出かけてるから」
「帰ってきてから訊けよ」
「駄目、どうしても今すぐ切りたいの、そういうことってあるでしょ」
まったく共感できないまま、何となく忍び足で姉の部屋に入ると、雑誌やマグカップが雑然と置かれた折り畳みテーブルの上を漁る。その拍子に雑誌の下から、「離婚」と印字してある紙が覗き、鉄二は思わずそれを引き抜いた。書類を挟んだクリアファイルが出てくる。
離婚届だ。生まれて初めて現物を見た。勇の署名だけがあり、姉が記入する箇所は空白のままだった。そしてやけにぶ厚い。後ろめたさより、何だよこれという気持ちが勝り、ファイルの中身を取り出す。
全部離婚届だった。そして全部勇の欄のみ埋まっている。姉のほうで愛想を尽かしたような口ぶりだったのに、これを見る限り離婚の意思は勇にあるとしか思えない。それにしても何でこんな大量に?
クリアファイルを元の場所に戻し、母親に爪切りを渡してから部屋でひとり考えた。勇の心変わりで離婚を申し出る、姉は夫が悪者にならないよう嘘をつく─可能性はあると思う。でも、二、三十枚はあった、あの離婚届の束はどういうことなのか。勇が執拗に離婚を迫るところも、姉がそれを拒むところも想像できなかった。別れたいという相手にしがみつく魔王じゃないはずだ。それとも自分がまだ子どもだから、夫婦の何かを見誤っているのか? 鉄二の頭の中には「離婚届」の三文字の活字が彫り込まれたように消えない。