姉にぶつけた「秘密」のこと。そして金魚すくい選手権本番で…/一穂ミチ『スモールワールズ』⑥
公開日:2021/5/5
6つの家族の光と影を描き出す6編からなる連作短編集『スモールワールズ』。本書に収録された1編「魔王の帰還」を全6回でお届け。「魔王」とあだ名される姉がなぜか実家に出戻ってきた! 高校生の弟はそんな姉に翻弄されながらも姉の「秘密」が気になって…。
夕方、家に帰ると姉は庭先で洗濯物を取り込んでいるところだった。
「遅かったのう、何しとったんじゃ。テストが終わった途端遊び呆けよんか、ええご身分じゃのう」
「姉ちゃん」
「何じゃ」
「勇さんのこと、聞いてきた」
姉はさっと顔を強張らせると、洗濯物をいっぺんに抱えて縁側に放り投げ、鉄二に背中を向けた。
「姉ちゃん」
「誰にも言うな」
「言わねえけど……どうすんの?」
「分からん」
途方に暮れた、魔王にあるまじき声だった。
「管につながれて、まぶたも動かせん、声も出ん、そんな姿を見られとうないって言われたんじゃ。元気な姿だけを覚えていてほしい、それが一生のお願いですって言われたら、わしゃどうすりゃあええ。……いつか新しい薬やらができて治るかもしれん、言うたら、奇跡の話をするな、って、勇が怒ったんよ。初めて、わしに。その希望に僕は耐えられないゆうて、泣いた。自分が、なーんの覚悟もなくて、勇の苦しさなんぞいっこも分かってやれとらんかったのが恥ずかしゅうて悔しゅうて、わしは……」
泣いてはいない、けれど魔王の広大な背中が初めて頼りなく見えた。鉄二は二階に上がり、姉の部屋にある離婚届の束を改めて手に取った。一枚ずつゆっくりめくっていくと、最初は端正だった勇の筆跡がだんだんといびつになり、最後にはのたうつようにふるえていた。みるみる自分の身体がままならなくなる恐怖、それを目の当たりにする恐怖、何枚も何枚も突きつけられるさよならを、姉はどんな気持ちで受け取り、溜め込んできたのだろう。
それから姉は、数日部屋に引きこもったかと思うと、朝早く出かけて行った。「バイトらしいわ」と母が言う。
「倉庫作業だって。あの子、フォークリフトの免許持ってるから」
「そのうちパワーショベルとか乗り回すんじゃないか」
のんきな両親に全てぶちまけてしまいたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえる。バイト先の倉庫は家から十キロも離れていて、徒歩で往復する姉に「もっと近くに何かしらあるでしょうに」と母は呆れていたが、とにかく身体をこき使って現実から逃避したい気持ちが鉄二にはよく分かった。姉はビニール袋に閉じ込められてぱくぱくと喘ぎ、もがいている。勇もそのはずなのだ。だったらせめて同じ水の中にいればいいのに。鉄二は毎日駄菓子屋に通い、掃除や雑用を引き受ける代わりにただで金魚すくいの練習をさせてもらった。没頭するうち、金魚たちがどう動くのか予測し、先回りしてすくえるようになっていった。何の役にも立たなくとも、進歩は嬉しい。過ぎ去った時間に意味を与えてくれるからだ。夏休みに入り、七月が終わり、二度の原爆忌と終戦の日が巡る。
八月下旬、晴れた日曜の朝、鉄二は姉の部屋の前に立ち「きょうだぞ」と声をかけた。
「姉ちゃんが言い出したんだろ、金魚すくい選手権。住谷さんがわざわざお揃いのTシャツ作ってくれたんだよ。姉ちゃんの分、置いとくから。XXXLな」
襖の向こうからはうんともすんとも返ってこなかったが、姉は聞いていると思った。
「行こうぜ。ひとつでも勝とうぜ。勝って、勇さんとこ帰れよ」
こんなお遊びに優勝したところで、何にもならない。償いも解決も仕返しもできない。でも、勝ちたいのだ。ささやかに、ちっぽけに、勝利を飾りたい。小さな勲章で胸を張りたい。大丈夫、やっていけるよと。
会場の総合体育館に行くと、受付の前で菜々子が待っていた。
「鉄二くん、お姉さんは?」
「まだ」
「そう……」
体育館と隣接する公園には屋台が並び、すでに煙と呼び込みの声がひしめいている。テレビの取材も来ていて、この狭い町の一大イベントにふさわしいにぎわいだった。参加者の列が次々と手続きを済ませゼッケンを受け取るのを、直射日光に灼かれながら見ていた。アスファルトの地面に落ちる自分の影に汗が落ちてまたさらに濃いしみを作る。暗い場所には果てがない。
『間もなく一次予選が始まります。受付を済ませていないチームの代表者は至急会場入口のテントへお越しください』
新品のTシャツがじっとりと汗に濡れ、背中にへばりつく。まじで不戦敗かよ、という不安がよぎった時、遠くから伝言ゲームのようにどよめきが伝わってきた。
─え、すごくない?
─でっか……。
鉄二は菜々子と顔を見合わせた。モーゼのように人波を割って堂々と歩いてくる姉を、きょうほど誇らしく感じたことはない。
「お姉さん!」
菜々子が人目も憚らず姉に飛びつくと、姉は微動だにせず抱き止めてその場でぐるぐる回転した。あはは、と菜々子の笑い声。遠心力で浮き上がる身体は、手を離されれば円盤みたいに飛んでいってしまうだろう。
「菜々子、心配かけてすまんかったの」
まず俺に言え。
「ううん」
菜々子を地面に降ろし、頭を軽く撫でると姉は「行くぞ」と先陣を切った。金魚と同じ朱色のTシャツは、背中に黒くでっかく「チーム魔王」とプリントされている。
一次予選、二次予選、と順調に勝ち上がり、上位十チームで競う決勝戦に進むことができた。日々の練習の成果だ。
『それでは、これより決勝戦を行います。皆さま、準備はよろしいでしょうか』
小さい浴槽くらいの水槽に和金がうじゃうじゃ泳いでいる。これだけいればいくらでもすくえそうなものだが、なかなかどうしてこいつらは甘くない。ルールはこれまでと同じく、三分間で何匹すくえるかを競う。ポイは一本きり、破れたらそこでおしまい。水槽の長辺に並んだチーム魔王は無言のまま視線を交わし、頷き合った。
『位置について、よーい、スタート!』
体育館にホイッスルが鳴り響くと、浅い水の中にポイを沈めた。胸が高鳴る。でも浮き足立ってはいない。自分の身体の隅々まで意識し、使うことができる。懐かしい、試合の感覚がよみがえってくる。
勝とう。
「すいませーん、地元のにこにこテレビの者ですがちょっとお話聞かせていただいていいですか? 入賞はなりませんでしたが、大健闘の四位、おめでとうございます! Tシャツといい、ものすごく目立つビジュアルのチームですね、皆さん、どういったご関係なんですか?」
「勇!」
「えっ?」
「勇、よお聞け、すぐそっちに戻るけえのう、お前が何と言おうがわしゃもう死ぬまで逃さんぞ、腹括って首洗うて待っとれ!」
「あ、あの」
姉が会場中の視線を独り占めしている隙に菜々子と外へ抜け出した。場内の熱気を逃れても、快晴の昼下がりはめまいを誘う暑さだ。屋台でかき氷を買い、歩きながら食べた。
「負けたねえ」
いちご味を選んだ菜々子が、さっぱりした口調で言う。
「でも、楽しかったからまあいいや。鉄二くんは?」
俺も、とメロン味を片手に鉄二は答える。現実は何ひとつ変えられない、でも、この夏、自分たちは忘れられない思い出を作った。それってすごいことだと思った。次の夏が同じように巡ってくる保証なんてどこにもないから。
「住谷さんと一緒」
「ふーん」
鮮やかに着色された氷をスプーンでがしがし掘りながら、菜々子は「てかさー」と立ち止まり鉄二を見上げる。
「鉄二くんは、いつまでわたしを『住谷さん』って呼ぶのかなー?」
「え……じゃあ、住谷?」
「違うだろ」
姉にすごまれるより怖かった。
「……菜々子」
恐る恐る口にすると「よくできました」と笑って赤い氷をひと口くれた。
スマホの通知で、きょうが甲子園の決勝だったと知る。誰かが勝ち、誰かが負けた。むくむくそびえる夏雲を頂く、摂氏三十六度の路上に人影はまばらだった。ゲームセットのサイレンは空耳でさえ鳴らなかったが、甘ったるい氷を噛む音が口の中でじゃくじゃく響いて、気持ちよかった。
翌朝、テレビの前で「何でじゃ!」と雄叫びを上げる姉の姿があった。
「何でわしのインタビューが流れとらんのじゃ!」
「あんなもん放送できるわけねえだろ」
犯罪予告にしか聞こえない。
「そもそもケーブルテレビだから、勇さんが見れるわけねえし」
「それを早う言わんか!」
「いや地元って言ってたし」
「ふたりとも朝からうるさい、お父さんチャンネル変えていい? ……生後十ヵ月の赤ちゃん死亡だって、かわいそうにねえ」
きょうは、菜々子とプールに行く約束だった。菜々子の水着姿を想像してろくに眠れなかったので、足がつらないか心配だ。入念に準備体操をしなければ。水着やタオルを用意していると、玄関でがらがらと車輪の音がする。鉄二は手を止め、どんどん遠ざかっていく騒音に耳を澄ませた。姉ちゃんの音だ。
小学校二年の時、スーパーで転んで腕を骨折した。姉は痛みに泣き喚く鉄二を買い物用のカートに放り込んで押し、病院まで爆走した。店員の制止も聞かず、がらがらと派手に地面を削りながら。
─野球できなくなったらどうしよう。
─大丈夫じゃけぇ、鉄二、泣くな。姉ちゃんがついとるけぇ。
大丈夫だよ姉ちゃん、と今度は鉄二が思う。奇跡は起こらない、起こらないから傍にいてやれ。最後には負けが決まってるシナリオでも、立ちはだかるから魔王なんだろ。
勇者のもとへ、音を立てて帰れ、魔王。
『スモールワールズ』の他5篇は、本書でお楽しみください