宮崎駿や大友克洋も影響を受けた「バンド・デシネ」や「グラフィックノベル」市場に新たな道筋―― “読みたい読者が本を作る”海外マンガ翻訳家が挑む新たな出版の形
更新日:2021/4/24
「バンド・デシネ」という言葉をご存じだろうか。一般的にベルギーやフランスなどフランス語圏のマンガのことをバンド・デシネ(Bande Dessinée)、略してBD(ベーデー)と呼び、大人向けから子供向けまで日本のマンガと同じように多様な作品がある海外のマンガだ。
日本では『タンタンの冒険』(エルジェ)がバンド・デシネの作品として広く知られ、BD作家では、宮崎駿、大友克洋、谷口ジローらが敬愛するメビウス、BDのビジュアルのインパクトをファンに植えつけたエンキ・ビラルなどがいる。
古くは1960年代後半から日本でもバンド・デシネが翻訳出版されてきたが、2000年代に入ると『error』『ユーロマンガ』など海外マンガ専門誌が発刊するほどの活況を呈する。また近年ではバンド・デシネのほか、英語圏などのマンガ“グラフィックノベル”も含めた作品のなかで、移民や戦争、セクシャリティ、ジェンダーなどアクチュアル(現在に適した)なテーマを扱った作品が数多く刊行されている。
とはいえ、実際はそれほど多くはない読者と出版社が地道に支えてきた日本の海外マンガ市場はお世辞にも大きいとはいえないのが現状だ。しかし昨年、国内の海外マンガの市場に新たな道筋を照らす、新しい海外マンガ出版の形が現れた。
“「読みたい」読者が本を作る”ということ
2020年、サウザンブックスという出版社の新しいレーベル「サウザンコミックス」の編集主幹である原正人さんが中心となって、クラウドファンディングによって資金を募りバンド・デシネ『レベティコ 雑草の歌』の出版を実現させた。2016年に設立したサウザンブックスはそれまでの出版社と違い、クラウドファンディングで出版することに特化した出版社で1000人集まれば出版できることが会社名の由来のひとつになっている。
翻訳家である原さんは2010年にニコラ・ド・クレシー『天空のビバンドム』(飛鳥新社)やホドロフスキー&メビウス『アンカル』(小学館集英社プロダクション)の翻訳を皮切りに、現在まで電子書籍を含めて80作品以上のバンド・デシネなど海外のマンガの翻訳を手がけ、また読者投票でベストを決めるガイマン賞を主催するなど国内の海外マンガの普及のために精力的に活動している第一人者だ。
“「読みたい」読者が本を作る”
この理想的ともいえる出版の形と、“読みたい読者の場所”が生み出すクラウドファンディングの可能性とその魅力について、サウザンコミックの編集主幹で翻訳家の原正人さんに聞いた。
――まず、昨年のクラウドファンディングの第1弾『レベティコ 雑草の歌』を始めようとしたきっかけを聞かせてください。
以前からどうすればより多くの海外マンガを翻訳出版できるかというのを考えていたんですけど、2018年に僕がComic Street(コミックストリート)という海外マンガの情報サイトの編集長をしていた時に、そのサイトを運営していたデジタルカタパルトの平柳さんという人からサウザンブックスの古賀さん(取締役社長 古賀一孝氏)を紹介してもらったんです。古賀さんと会う前からサウザンブックスがクラウドファンディングで出版活動をしているのは知ってましたけど、当時の僕はクラウドファンディングに対して、あまりポジティブな印象を持っていなかったんです。けれど古賀さんからクラウドファンディングの話を聞いたらこれがすごく面白くて。自分がそれまでやってきたこととは全然違っていて、それこそ目から鱗でした。
通常の商業出版による翻訳って、本を作ったところで出版社や翻訳者はそれを誰に売っているのか、基本的には全然わからないわけです。それがクラウドファンディングはそうじゃないんですよね。直接の知り合いじゃないにしても支援者が誰かってことははっきりしているし、支援者の皆さんがSNSなどを通じてそのプロジェクトに対する支持を表明したり、情報の拡散の手助けまでしてくれたりする。もちろん目標金額の設定にもよるんですが、クラウドファンディングで本を作るのに必要な支援者の数って、何千人、何万人とかってことは全然なくて、それこそ1000人とか、その半分とかで済んだりする。何ならそれは把握可能な数ですよ。海外マンガ好きのコミュニティを作っていくということはずっと考えていたんですが、そういうものを実現する上でも、クラウドファンディングには大きなメリットがあると思ったんです。
一緒になにかやれたらいいですねみたいな話を古賀さんとしていたんですけど、そうこうしているうちにサウザンブックスが『ゼノビア』というデンマークのシリア内戦をテーマにしたグラフィックノベルのクラウドファンディングを始めたんですね。発起人は専門家というわけではなく一般の方で、作品の知名度もそこまでではなかったんですけど、ちゃんと目標金額を達成して出版が成立しました。僕も応援コメントを寄せましたし支援もしましたけど、もともと出版業界の人ではない一般の方が発起人で、そこまで知名度のある作品ではなかったのに成立したのを見て「これアリなんだ」って思ったんです。だったら僕だってクラウドファンディングの発起人をやっていいし、成立しない理由もないよなって(笑)。
本を作る喜びに満ちていた。クラウドファンディングで見えた景色
そしてサウザンコミックスレーベルの第1弾で『レベティコ』のクラウドファンディングが始まり、2020年2月に目標250万円を大きく上回る650人から320万円の支援が集まった。
――『レベティコ』は本国フランスでは2009年に刊行されたバンド・デシネですが、10年以上前の作品が今日本で刊行できたことになにか思うことはありますか。
作者のダヴィッド・プリュドムが言っていたことですが、彼はレベティコ(ギリシャのポピュラーミュージック。日本ではレベーティカ、レンベーティカとも)を知った時に、1930年代のレベティコが置かれていた状況やレベテース(レベティコ奏者)たちの底辺の生き方にまず興味を持ったんだそうです。70年以上前の世界であるはずなのに、現代のフランスとそう違わないと。移民とか貧困とか疎外とか生きづらさとか、そういうことですね。
僕はフランスで出版されて割とすぐにこの本を読みましたが、その当時、作者がこの作品に込めたアクチュアリティにはほとんど気づいていませんでした。けれど不思議なもので、それから10年経っていざ翻訳することになると、その部分が強く感じられるようになった気がします。10年前とは日本の状況が変わってきているということもあるのかもしれませんし、僕が歳を取ったということかもしれません。
いずれにせよ『レベティコ』は執筆当時のフランスだけでなく、今の日本のある種の状況とも重ねて読める本になっていると思います。本書の重要なテーマのひとつに、ライブと複製芸術がありますが、このコロナ禍で出版されたことでそのメッセージ性が際立った気もしています。
――クラウドファンディングの話に戻りますが、『レベティコ』の出版が成立したことで見える景色は変わりましたか。
完成した日本語版にはジャケット(カバー表紙)がついていません。ジャケットがないというのは普通の出版流通だとデメリット(汚損などで商品本体がロスとなる)にしかならないんですが、クラウドファンディングを通じた出版だったからこそ、こういうチャレンジができました。別にジャケットがないことがいいと言いたいわけじゃないんですが、バンド・デシネの原書にはジャケットがないことが多いですし、原書の空気感のようなものはよりよく伝えられているんじゃないかと思います。
日本語版のデザインを手がけてくれたのは、金子歩未さんというデザイナーさんです。彼女はクラウドファンディングの支援者のひとりでクラウドファンディングを通じて知り合い、本の制作にまで関わってもらったわけですが、結果的に日本語版は作者のダヴィッド・プリュドムも大いに気に入ってくれるほどすばらしいものになりました。リターンとして本をお送りした支援者の皆さんも喜んでくれて、SNSでこの本を話題にしてくれ、一般発売される頃には支援者以外の人たちも興味を持ってくれました。こういうことができるのはクラウドファンディングならではだよなと思います。一連のことがすごくきれいにできたし、本を作る喜びに満ちていました。
出版社が自社の本を書店で売るには、取次から書店に自動的に配本されるか書店から注文が来なければ本が置かれることはない。少部数で読者も限られる海外マンガとなると取次からの配本はほとんどなく、また売れないという判断を書店でされてしまうこともあるため、専門書店など限られたお店でしか読者へ本を届けられないということが起こってしまう。
――書店で売るには置く場所や、判型とか、価格の表記とかいろいろ考えてしまうのですが、そういう既存の出版流通のジャッジから離れたところで、欲しい人だけに向けて本を作れるというのはクラウドファンディングの利点だと思いますがいかがですか。
『レベティコ』の支援者は650人いたわけですけど、僕が今までやった出版での最低の部数が2000部弱です。それでも少ないって思ってたんですが、実はもっと少ない650人の支援者のお金で本が作れてしまう。しかも多くの人に売れるように考えて無理に判型を小さくするようなことも必要なければ、この値段じゃ売れないよなということを考える必要もない。650人って決して多くないけど、そもそも海外マンガの翻訳出版というすごくニッチなことをしているわけで、スタート地点はこんなもんかなという気もします。なんかこう、地に足が着いた感覚でやれているというのがありますね。
――クラウドファンディングを使って出版社が本を出すということでビジネス面での難しさはあるのでしょうか。
サウザンコミックスがその一員であるサウザンブックスの本は、完成するとまずはリターンとして支援者の皆さんのもとに送られ、その後各書店で一般発売されます。ここで本が売れて初めてサウザンブックスの利益が発生する。当然、多く売れるに越したことはないわけですが、商業出版される多くの本と一緒でそれは決して簡単なことではありません。もちろんいい本を作れば支援者の皆さんが喜んでくれ、そのことがまた宣伝になりうるわけです。まずはニッチな本を欲しい人だけに向けて作るにしても、より多くの人たちに知ってもらい買ってもらえるという可能性を秘めているのが、クラウドファンディングを通じた出版の面白さかなと思います。そういう観点からも、『レベティコ』は幸せなケースでした。
※『レベティコ』は重版が決定している。
クラウドファンディング出版のこれから
――そしてサウザンコミックスのクラウドファンディング第2弾であるアメリカのグラフィックノベル『テイキング・ターンズ』が今年2月に目標金額に到達して出版成立になりました。第2弾について聞かせてください。
サウザンコミックスは世界中のマンガを翻訳するレーベルです。最初こそ編集主幹の僕が責任を果たすためにしゃしゃり出ましたが、今後はよっぽどのことがなければ僕が発起人になることも、翻訳をすることもないんじゃないかと思います。僕のイメージでは、サウザンコミックスは“みんなのレーベル”です。この作品を翻訳したい、この作品を翻訳してほしい、そのためには発起人になるのもやぶさかじゃない、そういう人と日本における翻訳海外マンガを盛り上げていきたい。
ということで、フランス語圏のバンド・デシネの次はアメリカやアジアのマンガがいいなと思っていたわけですが、そんな中、旧知の日本グラフィック・メディスン協会代表でもある中垣さん(中垣恒太郎:専修大学教授)が、HIV/エイズをテーマにした『テイキング・ターンズ HIV/エイズケア371病棟の物語』というアメリカのグラフィックノベルの翻訳出版に興味を持たれていたため、この作品を第2弾とすることにしました。この作品も放っておいたらまず確実に日本では翻訳出版されないであろう作品です。第2弾は期間ギリギリまで本当に大変でしたけど、成立してホッとしています。自分が発起人としてクラウドファンディングを行うのとはまったく違った経験で、すごく勉強になりました。第1弾の『レベティコ』と第2弾の『テイキング・ターンズ』はまったく毛色が違う作品なんですが、この色とりどりの感じは気に入っています。
『テイキング・ターンズ』(MK・サーウィック) 発売日:2021年秋以降
1994年から2000年にかけて、アメリカのシカゴにあったHIV/エイズケア病棟で看護師として働いていた作者MK・サーウィックによる回想録。人類は今、新型コロナウイルス感染症という未曾有のパンデミックに直面しているが、かつてパニックを引き起こしたエイズという感染症から学ぶことは多いはず。
グラフィック・メディスンとは
医学、病い、障がい、ケア(提供する側および提供される側)をめぐる包括的な概念であり、数量化による捉え方(一般化)が進む中でこぼれ落ちてしまいかねない「個」のあり方に目を向け、臨床の現場からグラフィック・アートまでを繋ぐ交流の場を作り上げようとする取り組み。その一環として、マンガをコミュニケーションのツールとして積極的に取り上げたり、マンガの制作を通して気持ちや問題を共有したりする活動が行われている。
(『テイキング・ターンズ』のクラウドファンディングページの解説より)
――次の第3弾のタイトルはすでに決まっているのでしょうか。
先日発表されました。5月上旬にはクラウドファンディングをスタートする予定です。第1弾がフランス語圏で第2弾がアメリカと来たので、第3弾はアジアの作品がいいなあと思っていたのですが、そう都合よくいくものでもなく(笑)、諸般の事情から再びフランス語圏のバンド・デシネとなりました。おそらく第4弾はアジアの作品をやれると思います。
タイトルは“Les ignorants– Récit d’une initiation croisée”といって、直訳すると「無知なる者たち–相互教育の物語」。1年以上にわたってフランスの有機ワイン農家に密着したノンフィクションで、ワイン醸造家とバンド・デシネ作家がお互いの仕事を教え合って、お互いの世界を知っていくという作品ですね。
クラウドファンディングで重要なのは、言うまでもなく発起人の存在です。僕は『レベティコ』を10年間いろんな出版社に持ち込んだけど全部ダメで、それでもいつか出したいなとずっと思っていてクラウドファンディングに辿りつきました。その熱意みたいなものは、クラウドファンディングをする上ではどうしても必要だと思います。この第3弾はもともとフランス語圏のバンド・デシネなんですが、発起人の京藤好男さんは、実はNHKのイタリア語講座の講師などを務めたイタリア語の専門家なんです。京藤さんはワインがお好きで、特に有機ワインに興味を持たれた時に、知り合いのイタリア人ワイン農家の方からこの作品のイタリア語版を紹介されたそうです。一読して、ぜひこの本を日本で出したいと思った京藤さんは、イタリア語版から日本語に翻訳して、いろんな出版社に持ち込んだわけですが、残念ながら企画は通りませんでした。どうにかできないかと思っていた頃に、『レベティコ』を通じてサウザンブックス社とサウザンコミックスのことを知り、ご連絡くださったんですね。この熱意は、僕からしたら非常に尊いものです。
サウザンコミックス クラウドファンディング第3弾「無知なる者たち(仮)詳細ページ
サウザンコミックスはみんなのレーベル
――クラウドファンディングによる海外マンガの翻訳出版について原さんの今後の展望を聞かせていただけますか。
海外マンガは日本でもここ10年くらいは年間100から多い時では200タイトルくらいは常に出版されているんですが、それでも海外で名作と言われている作品が全部翻訳されているわけではない。そんな状況だからこそ、読者が読みたい本を作ることができるクラウドファンディングには意義があると思います。さっきも言いましたが、サウザンコミックスは“みんなのレーベル”です。だから翻訳者はもちろん、いち読者でも声をあげて発起人になってくれたりすると面白いなと思います。僕はそのための場づくりをしていきたいと思います。マンガはフランス語圏や北米だけじゃなく、アジアにも南米にもアフリカにだってあるわけで、それこそ世界中のマンガをサウザンコミックスを通じて翻訳していけるといいですね。
――それでは最後に原さんから読者に向けて、今読んでほしいオススメの海外マンガをいくつか紹介をお願いします。
まずは『ユーロマンガ』でしょうか。10年以上前にもともとは紙で出版されていたバンド・デシネ専門誌なんですが、今年2021年から電子書籍の月刊誌として生まれ変わりました。オールカラー350ページで、バンド・デシネが10作品も連載されていて880円というお得すぎる内容で、バンド・デシネの多様性を知ることができます。バンド・デシネが電子で安価に読めるなんて、数年前には想像できませんでしたが、時代が変わったなあと思いますね(笑)。僕自身が翻訳しているシリル・ペドロサの『ポルトガル』やマチュー・バブレの『シャングリ=ラ』など、これまで日本で紹介されてこなかった作家の作品がいくつも読めるのが特徴です。ちなみに『ポルトガル』は僕が『レベティコ』と並んでずっと訳したかった作品なので、ぜひ注目していただきたいです。
マンガそのものではなくガイド的なものですが、僕が企画・構成を担当した『アイデア』393号「特集:世界とつながるマンガ 海外マンガのアクチュアリティ」も強くオススメしたいです。今、海外マンガに興味がある、あるいはこれから海外マンガに興味を持つ人にとって、ささやかながら海外マンガという世界を冒険するための地図になるようなものを目指した本で、紙から電子まで、なんとなくではあれ、全体を見渡せるんじゃないかと思います。図版もたっぷり入っていて、作品の雰囲気もつかみやすいはず。余白もたっぷりあるので、ぜひご自身で地図をもっと豊かなものにしていっていただきたいですね。
その他、昨年末に出版された新しい本だと、『アイデア』393号(誠文堂新光社)でも紹介していますが、ティー・ブイ『私たちにできたこと』もオススメしたいです。作者はベトナム生まれのアメリカ人で、両親がベトナム戦争の渦中にボートピープルとして難民になったことで、アメリカにやってきました。僕自身はベトナム戦争のこともボートピープルのこともなんとなくしか知らなかったので、とても勉強になりましたし、戦時に青春時代を迎え、大人になってからまったく環境の異なる新天地で人生をゼロから始めなければならなかった作者の両親には、同情を禁じえません。欧米でアジア人に対するヘイトクライムが問題になっている今だからこそ、注目しておきたい作品のひとつです。
原正人
1974年静岡県生まれ。フランス語圏のマンガ“バンド・デシネ”を精力的に紹介する翻訳家。サウザンコミックス編集主幹。フレデリック・ペータース『青い薬』(青土社)、トニー・ヴァレント『ラディアン』(飛鳥新社)、ジャン・レニョ&エミール・ブラヴォ『ぼくのママはアメリカにいるんだ』(本の雑誌社)、バスティアン・ヴィヴェス『年上のひと』(リイド社)、ダヴィッド・プリュドム『レベティコ―雑草の歌』(サウザンブックス社)など訳書多数。監修に『はじめての人のためのバンド・デシネ徹底ガイド』(玄光社)、『アイデア』393号「世界とつながるマンガ 海外マンガのアクチュアリティ」(誠文堂新光社)がある。
取材・文・撮影=すずきたけし