自分の適性や経験で転職先を決める「マッチング思考」に潜むワナ/働くみんなの必修講義 転職学⑤

ビジネス

公開日:2021/5/10


働くみんなの必修講義 転職学』から厳選して全5回連載でお届けします。今回は第5回です。

日本の人材開発研究の第一人者が12,000人の大規模調査に基づき編み上げた、「一億総転職時代」最高のテキストが誕生! 巷に溢れる「転職本」の問題点とは?「ミドルの転職」の結果を左右するものは? 全日本人必読の一冊です。

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働くみんなの必修講義 転職学
『働くみんなの必修講義 転職学 人生が豊かになる科学的なキャリア行動とは』(中原淳、小林祐児、パーソル総合研究所/KADOKAWA)

「マッチング思考」から「ラーニング思考」へ

 ここであらためて、これまでの話も踏まえたうえで、本講義のスタンスについて述べておきましょう。

 本講義の第一のスタンスは、転職を一過性の「イベント」として捉えるのではなく、「プロセス」として、その全体を捉えていこうとするものです。転職とは、買い物で好きな商品を選んだり、休暇の旅行先を決めたりするような、単純な意思決定ではありません。転職活動を始める前はもとより、活動中も、転職後もさまざまな悩みやストレスを抱えますし、だからこそ、成功したときの喜びは大きくなります。離職から転職活動、そして入社、組織順応へと至る「プロセス」思考が、「内定」をゴールにしている転職マニュアル本や、細かな論点を積み上げる学術研究とは異なる点です(図4)。

働くみんなの必修講義 転職学

 本講義の第二のスタンスは、「はじめに」でも触れた「ラーニング思考」というコンセプトです。この講義では転職プロセスにまつわるさまざまなトピックを扱っていきますが、そこにおける私たちの一つの結論は、これからの転職に必要とされるのは、「マッチング思考」から「ラーニング思考」への思考転換である、ということです。

「マッチング思考」とは、ひと言でいえば、「自分に合っているベストな会社や仕事を探すのが転職である」とする考え方です。一見すると、これは当たり前のようにも思えます。多くの人は転職先を選ぶとき、自分の適性やキャラクター、これまでの経験などにマッチする職業や会社を探し求めますし、転職を考えるときにも、「この会社は自分に合っていない」という理由が重きを占めます。

 学術研究の分野でも、「個人の特性や性格」に基づいて適した職業を選択に結びつけようとする発想は、フランク・パーソンズ〈7〉やジョン・L・ホランド〈8〉の職業選択理論など、古典的なキャリア論の通奏低音になっています。

 しかし、じつはこうした「マッチング思考」には、あまり意識されていない「隠れた前提」があります。この思考で転職を成功させるためには、以下の五つの条件をすべて満たす必要があるのです。

① 本人が、自分のことをよくわかっていること
② その自分は、すぐには変わらないこと
③ 本人が、入りたいと思う企業・仕事のことをよくわかっていること
④ その企業・仕事は、すぐには変わらないこと
⑤ その企業・仕事と自分が出会えること

 ①について、私たちは日々、自分のことを深く見つめて生活しているわけではありません。転職を考えはじめたとき、自身のキャラクターや性格、興味・関心について「よくわかっている」と自信をもって言い切れる人は少ないはずです。よく使われるのが適職診断ツールで、世の中には心理学の知見に基づいた定番のものから怪しげなものまで、さまざまな診断ツールが開発されています。

 これらはいくつかの質問に答えることで、その人がどのような人間かを数量的に示し、自分に合った仕事を勧めてくれます。まさに「マッチング思考」を助けてくれるツールですが、そうしたツールで①のように自分のすべてが把握できるか、さらにはそこで分析できた自分が②のようにこれからも「変わらない」と断言できるかといえば、そうとはいえないのではないでしょうか。

 ③「本人が、入りたいと思う企業・仕事のことをよくわかっていること」、④「その企業・仕事は、すぐには変わらないこと」についても、転職活動をしながら、自分に「合っている」と感じる企業を探すことは可能です。しかし、それはその企業が「変わらない」ことを意味するわけではありません。企業に入社してからも、私たちは多くの変化に直面します。M&A(企業間の合併・買収)で名前ごと別の企業になってしまったとか、憧れていた経営幹部が辞めてしまったとか……そうした例が無数に存在します。

 ⑤「その企業・仕事と自分が出会えること」についても、転職活動中はあらゆる場所にある多くの求人情報から情報を取捨選択し、整理する必要がありますが、市場の情報を完全に把握し、そこでベストなものを選ぶことは不可能です。経営学には、人は意思決定を行なう際、その認識能力には限界があるため、すべての可能性のあるものを検討したうえで、合理的に決定することはできない、という「限定合理性」という概念があります。ある物事を選ぶという行為はどこまでいっても不完全であり、限りある情報のなかから、エイヤッと決めることしかできないのです。

働くみんなの必修講義 転職学

 図5のように、現在の日本にはおよそ一万七〇〇〇職種、四二一万企業、さらには一〇〇近い業種が存在しています。「マッチング思考」とは、この膨大な数から「ベスト」を探すような考え方であり、その前提として「自分」や「環境」を固定的なものとして捉えてしまう、という傾向があるのです。

自分のキャリアを「運任せ」にしないために

「マッチング思考」とは異なり、転職における「ラーニング思考」とは、「転職を通じ、学ぶことのなかで自らも変わっていく」という考え方です。時代や環境の変化にアンテナを立て、その都度新しいことを学習していくこともその一つですし、転職活動のなかでそのやり方をチューニングしていくこと、そもそも自分が「なぜ転職したいのか」という動機づけを変えていくことまでも、そこには含まれます。

 筆者の一人である中原は、過去二十年にわたって「大人の学び」をテーマとする研究を行なってきました。ここでいう「学び」は、机に向かって勉強するということだけにとどまりません。

 大人にとって、「座学」は「学び」ではありません。時代や環境の変化を敏感に察知し、それらに適応して、「自らを変えていく」ことです。中原は、学生時代とは違うかたちで社会人もまた学んでいることをさまざまな角度から研究し、それを書籍や論文のかたちで発表してきましたが〈9〉、本書が取り扱う「転職」というテーマについても、この「学び=ラーニング」がもっとも大切であると確信しています。

 転職とは、「自分に最適な場を探そうとすること」ではなく、「自分が場に最適に適応すること――すなわち新たに学び、変化する覚悟をもつこと」によってこそ、成功にたどり着けるものです。本書は、この信念に基づき編まれています。

 私たちは、未来を見通しにくい世界のなかで暮らし、働いています。二〇〇八年のリーマン・ショックも、二〇二〇年のコロナ・ショックも、専門家を含めて正確に予測できた人はいませんでした。自然災害や事件・事故のような社会現象から、個人に起こるライフイベントまで、怜悧に先を見通すことは、およそ不可能です。

 だからといって、私たちは自身のキャリアを「運任せ」にするわけにはいきません。第4講で説明しますが、自らの仕事人生を「運任せ」と考える傾向の強い人は、新しいことを学ばなくなり、よい未来を手にできない可能性が高くなることがわかっています。「未来が不確実である」ということと、「不確実な未来にどのような心構えで向かうのか」ということは、別問題なのです。

 そうしたなかで転職とは、いわば「冒険」のような行為といえるでしょう。

 誰も山頂に到達していない登山に挑む冒険家を想像してみてください。先の見えないハイリスクな登山に先立って、冒険家は心身を鍛え、ルートの設定や装備の調達など、入念な準備を怠りません。現地入りしてからは、頻繁に変わる天候を読み、雪崩や滑落などの事故に注意しながら、氷河や岩壁といった難所を次々に乗り越えていきます。そしてついに頂上に立ったとき、そこからの眺望の美しさに、身を震わせることでしょう。

 不確実性の前に立ち往生し、思考停止に陥るのは禁物です。不確実性が高いからこそ、きちんと備えることが必要であり、成功したときに大きな喜びを得られるのです。そして、その冒険の道のりで必携すべきガイドこそ、この「転職学」講義です。

 あらためて、転職という冒険へようこそ! 本書をテキストにして、新たな旅立ちへの準備を始めましょう。

〈7〉 Persons, F. (1909)Choosing a Vocation, Houghton Mifflin.

〈8〉 ジョン・L・ホランド、渡辺三枝子・松本純平・道谷里英訳、2013『ホランドの職業選択理論 パーソナリティと働く環境』雇用問題研究会
D・E・スーパー、M・J・ボーン、藤本喜八・大沢武志訳、1973『企業の行動科学6 職業の心理』ダイヤモンド社

〈9〉 中原淳、2010『職場学習論 仕事の学びを科学する』東京大学出版会
中原淳、2012『経営学習論 人材育成を科学する』 東京大学出版会
中原淳編著、2012『職場学習の探究 企業人の成長を考える実証研究』生産性出版
中原淳、2018『働く大人のための「学び」の教科書』かんき出版

<続きは本書でお楽しみください>