めぐる/中村倫也のTHE やんごとなき雑談③
公開日:2021/5/3
めぐる
(初出『ダ・ヴィンチ』2020年7月号)
何とも考えのまとまらない午後だ。いや今日だけじゃない。きっと僕だけでもない。この期間中、立場は違えど、みんなずっとそうなんだろう。ソファに寝転がり天井を見上げて、部屋の隅に置かれている水槽の浮かんでは消えていく泡の音を耳にしながら、シューティングゲームのように次々に流れてくる考え事を引き止めるでもなく目で追う。変わらず続く自粛生活の中で僕はそれなりに楽しく過ごさせてもらっているのだが、それはそれで「申し訳なさ」を感じ始めている。僕は、ごく限られた“STAY HOMEをしていられる人間”のひとりだ。もちろん仕事に影響は出ているが、命は守られているし、守ることもできている。そんな中、働きに出る人のニュースを見たり、その人たちの暮らしや想いを考えたりすると、「楽しく過ごしていていいのか」とやるせない思いになる。水は有る場所から染み渡る。僕には今、時間がある。せめてもの娯楽にと、思いつくコンテンツを企画し、制作し、配信しても、もっとより多くの想いを掬えるんじゃないかと、考え事が絶えない。しかし同時に、自分がそんなスーパーヒーローみたいになれる訳がないことも十二分に理解しているから、じゃあ現実的にできることは何なのかとアレコレ考えだすと、脳内がシューティングゲーム化してとっ散らかっている今、という訳だ。だめだ、少し外の空気を吸おう。そういえばもう三日間家から出ていない。飲み物も切らしているんだった。
マンションの階段を下りて通りに出ると心地良い風が吹いていた。絡みつくほどの湿度もなく、目を細めるほどの日差しでもない、懐かしい五月の平穏。たった一年しか経っていないのに、季節が巡るといつも「お久しぶり」と感じてしまうのは何故なんだろう? 五月も「毎年言うじゃん」と呆れているだろうか。そういえば、最近家にいたからわからなかったが、暦の上ではもう「立夏」を迎えていることを思い出した。二十四節気でいうところの、夏の兆しが感じられる季節だ。誰が、いつ考えたのかもよく知らないが、僕はこの二十四節気やさらに細かい七十二候が好きだ。暦という正確で淡白な数字に、体温を感じることができる。単純な区切りではなく、親しみを持つことができる、素敵な工夫だ。こういう発明ができることは偉大だなあと尊敬する。そんな立ち上がり始めた夏の兆しを、歩きながら胸いっぱいに吸い込もうと試みたが、マスクの裏地の清潔な香りしかしなかった。しっかり役目を果たしているということか。喜んでいいのやら、悪いのやら。
角を曲がると、見たこともない不思議な花が咲いていた。白い壁の一軒家の脇にある花壇。これが花なのかもわからない。あまり手入れをされているようには見えないが、太く力強い茎から大きな葉っぱがたくさん茂っていて、その茎の先っぽが突然折れ曲がり、色鮮やかな花のようなモノに変わっている。近づいて観察してもよくわからない。橙と青紫の折り紙を、青々とした植物に乗っけてるみたいだ。スマホを取り出し、先日ダウンロードしたばかりの、写真を撮るだけで植物の名前を教えてくれるアプリを起動する。日々の散歩のお供に、便利な相棒だ。「ストレリチア」という植物らしい。別名“ゴクラクチョウカ”。なるほど、確かに花の部分が極楽鳥に似ている。花なのに鳥の名前がついているなんて面白い。家に帰ったらもう少し調べてみよう。
コンビニで飲み物を買い店を出ると、目の前を若いカップルが歩いていた。手を繋いで、時に顔を見合わせながら、弾むような足取りで歩く初々しい後ろ姿。付き合いたてだろうか。それとも久しぶりに会うのだろうか。溢れ出している笑顔が可愛らしい。その幸せ以外のなにものでもない光景を眺めていたら、いつの間にか僕の目に、涙が溜まっていた。「え、なんで、うそ、おれ、泣くの?」。自分でも意味がわからない。下を向いて動揺していたら、カップルはいなくなっていた。この感情はなんだろう。家に着くまでずっと理由を探りながら歩いた。別に人恋しいわけでもない、悲しいことを思い出したわけでもない。じゃあなんで涙が出る? 考える、考える。「ほっとしたのか……?」。どうやら僕は、安心したらしい。風を感じ、花を眺め、無垢な笑顔に触れたことで、零れ出す何かがあった。自分が思っていた以上に、自分を追い込んでいたらしい。僕と関係なく四季はめぐる。愛は芽生える。去年と今年の五月は違うけど、今年と来年の五月も違う。大丈夫だと、立ち上がるついでに夏が、僕の荷物を持ってくれた気がした。マンションのオートロックの前でこっそりマスクをずらし、大きく息を吸い込んだ。生きるものの匂いがした。
部屋に着きネットを開くと、一部自粛解除、という記事が出ていた。あのよくわからない植物、ストレリチアの花言葉を調べてみた。「寛容」。自分の不安や焦りも、これからの日々も、受け入れていこうと決めた。