田舎のマドンナだった母さん。弁論大会で力強く語る姿に父さんは一目ぼれをした/84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと④
公開日:2021/5/14
ともかく、頭が良くて可愛い母さんを父さんは溺愛した。
略奪するほどに愛した母さんを父さんは家から出さないようになる。
新婚生活をはじめた当初は、母さんが頼み込んで草月流の教室に通いお花を習わせてもらっていたようだが、しかし、次第に母さんの外出は制限されるようになる。
「東京は田舎者の君が歩き回るには危険過ぎる。へんな虫がついちゃ困る。だから、家から出ないように。出ても、この団地の近所とか、八王子の駅前くらいまでにしてほしい。新宿や渋谷とか、銀座なんてとんでもない。あそこにいるようなハイカラを気取った男たちはみんなゴロツキだ。アメリカかぶれのゴロツキに過ぎない」
父さんを擁護するわけじゃないけれど、それくらい愛していたということなのだ。
ぼくは当時銀座で遊んでいた男たちがゴロツキだとは思わない。アメリカも好きだ。
でも、父さんにはそう見えた。田舎者だったからに過ぎない。
「外の世界は怖い。おかしなことを言ってくる連中ばかりだ。それが世界というものだから。いいか、鍵をかけて、ぼくが帰ってくるまで外に出ないように」
このようなことを父さんは母さんに命じたのである。
戦後すぐのこと。今の時代からは考えられないくらいのパワハラだけど、自分の父の生真面目さを知っているから、そういう愛し方もあったのだろうな、とぼくは擁護する。
時代が、そういうことをさせていたということもできる。
親戚の証言もある。
「お前の父さんはずっと恭子さん一筋なんだよ。毎晩毎晩、会社から帰ってくるのが楽しみで、それはとってもかわいがっていた。だから、家に閉じ込めちゃったのさ」
母さんは父さんにそこまで愛されたのだが、残念なことに、母さんが父さんをそこまで愛していたのかどうかは疑わしい。
どこかで、自分は略奪されたと本気で思い込んでいる節があった。
しかし、実際の二人は仲睦まじい夫婦にしか見えなかった。
二人はいつも一緒だったし、時代が時代だから手を繫いで歩くことはなかったけれど、車の助手席には母さん以外の女性が乗ったのを見たことがなかった。
世界にはいろいろな愛がある。ぼくの両親のような愛は見方によればまだいい方じゃないか、と思う。
父さんが浮気をしてあちこちに女を作ったという話でもないし、宝物のように扱われ、狭いけれど、宝石箱のような家に鍵をかけて泥棒に盗まれないようにされるくらい、好かれたということに過ぎない。
「お前がまだ知らないものぜんぶを世界と言うのだよ」
この母さんの言葉はつまり、自分に言い聞かせたい言葉だったかもしれない。
ぼくと弟のあいだでは「あの二人はあの二人にしかわからない愛を貫き通した」ということになっている。
父さんは母さんを家の中に閉じ込め、(いい意味で)独り占めした。
母さんはその鳥かごの中から飛び出せない小鳥であったし、文句は言いながらも、その鳥であることを、どこかで喜んでいたのかもしれない(喜んでいてくれたのだとしたらいいなぁ、とぼくはのちに思うようになった)。
「そんなこと、あるもんですか、私はずっと不満でしたよ。あんな人!」
と84歳の母さんが激怒しそうなので、この話はここまで。
幽閉された母さんが外の世界と接触するためには、まず団地の人たちと仲良くなり、団地の主婦の方々を通して、東京やその当時の日本のことを知るしかなかった。
草月流の教室にお花を習いに出ていた一時期が、そこまでの風景が、母さんが見た東京のすべてであったし、その教室がどこにあったのかはわからないけれど、その周辺にあったレストランや喫茶店や店舗が地方から出てきた母さんにとっては文明だったのであろう。
数少ない情報を様々な方法でかき集めて、母さんは母さんなりの世界を頭の中に構築した。
そして、母さんが手始めにやったことは、外の世界で食べられている料理をあらゆる方法で研究し、自宅で再現することだった。
映画やテレビドラマなどで見た海外の料理をメモし、あるいはお花を習いに行った時に飛び込みで入った洋食屋だとかカフェなどで見知った食べ物を細かく記録し、分析し、当時はネットがないから、本屋や図書館で専門書を立ち読みし、真似た、としか考えられない。
あるいは、NHKの料理教室などの番組を熱心に見て、その創作と研究範囲を広げたのであろう。
もしくは、料理が得意な知り合いがお花の教室にいた、とか……。
そういえば一人、ハイカラな知り合いがいて、その方は都内中心地のお屋敷に住んでいて、父さんの郷里の大先輩だったと思うが、そこの奥さんが母さんを可愛がっていたように思う。
あるいは、想像でしかないが、母さんはその郷里のマダムから当時日本では珍しい欧風料理などを習っていた可能性もある。
今の時代であればクックパッドで見ればすぐに誰でも料理ができるのだけれど、当時はそんなものがないうえに、家から出られないので、どちらにしても、あらゆる手段を駆使して、西洋料理を自宅で再現しようとしたその心意気には頭が下がる。
もともと、子供の頃から和食の手ほどきは祖母から受けていたようだし、センスはあったのかもしれない。
九州にいた頃から花嫁修業と称して、料理を勉強していた。
ともかく、母さんは日野市にいた時代、あらゆる手を使って、料理の才能を開花させることに成功する。
ぼくが子供だった時代(今から半世紀も前のことになるが)、まだ洋食というものが日本で一般的じゃなかったあの時代に、母さんはぼくら兄弟のために毎晩、ハンバーグだとか、シチューだとか、カルボナーラや魚の欧風グリル焼きなどを拵えてくれた。
ぼくらは当然のこととして毎晩そういう美味しいものを頰張っていたのだが、あれから半世紀以上経った今、しかも幽閉の身で、どうやってその方法をマスターしたのか、という点に関しては謎である。
実際やるとなると相当に大変だっただろう、と想像し、やはり嘆息しか出ない。
母さんが作るハンバーグは肉汁もデミグラスソースも濃厚で、ナイフとフォークでカットした瞬間に、部屋中に美味そうな香りが溢れる豪華な一品であった。
本当に非の打ちどころのない天才的な美味しさだったのだ。
幼い頃、ぼくは小太りだったが、それは母さんの料理の腕前のせいでもあった。
団地の子供たちにこと細かに話をしても、赤いピラフを薄焼き卵で包んだケチャップ味のご飯料理、つまりオムライスのことだが、あの時代、そんな気の利いた料理のことを、団地の子供たちに理解させることは不可能であった。
「それはオムライスっていうんだ。楕円形で、黄色と赤のカラフルな食べ物で、湯気が立っている」
「なんで黄色なの?」
「それは卵の色だよ」
「なんで赤なの?」
「それはケチャップの色だ」
子供たちはみんな首を傾げながら、ふ〜ん、と唸るばかりであった。
「ちょっと甘酸っぱくて、食べながらよだれが止まらなくなる」
「へ〜」
ぼくは近所の子供たちを駐車場に集めて力説した。
「ぼくもしたことあるよ。卵かけご飯にケチャップかけたら、怒られた」
「馬鹿だなぁ。ご飯にはハムとかグリンピースとか入っていて、それをケチャップで炒めるの。フライパンで焦げるくらい炒めて、それを薄い薄い綺麗な卵焼きで包むんだよ。めっちゃ作るのが大変なんだぞ」
「どうやったら、ラグビーボールみたいになるの?」
「フライパンを両手で左右に動かしながら、こんな風に、ダンスするみたいに」
「ダンス!」
子供たちが折れるくらいに首を傾げた。
いろいろな形のオムライスが子供たちの頭の中に浮かんでいるのが見えた気がした。
でも、どれも正解じゃない。
「どうやって食べるの?」
「なんでそんなもの君のママは作るの?」
「なんでそういう形にしないといけないの?」
疑問が途切れなかったので、土曜日に子供たちをうちに招待し、母さんに一つ作ってもらうことになった。
完成したオムライスがテーブルにどんと置かれたとたん、子供たちから歓声が沸き起こった。
「すごい!!!!」
子供たちがオムライスにスプーンをさして、それを口の中に放り込んだ時の興奮する顔が忘れられない。
それは、ぼくにとっては現代日本の幕開けでもあった。
ちょうどオリンピックが行われた1964年のことである。
ひとなり。言い過ぎたらいけん。
しつこ過ぎたらいけん。無視し過ぎたらいけん。
深入りし過ぎたらいけん。詮索し過ぎたらいけん。
意地はり過ぎたらいけん。お節介し過ぎたらいけん。
なんでもし過ぎたらいけんよ。ほどほどがよか。
親しき仲にも礼儀ありやけんね。