無自覚に暴言を吐く私と、それに反応して怒り出す夫。回復期も病状は一進一退で…/料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。⑥
公開日:2021/5/24
『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。』から厳選して全8回連載でお届けします。今回は第6回です。
36歳のときにうつ病を患い、料理だけができなくなってしまった食文化ジャーナリストの著者。家庭料理とは何か、食べるとは何かを見つめなおした体験的ノンフィクションです。
お好み焼きをつくるのはこんなに難しいことなのか
回復期は少しずつできることがふえて、うれしくもあるが、同時になかなかやっかいな時期といえる。病気で大変な時期は、案外回復期なのかもしれない。
前より体が動き頭が働くこと、少し欲望が出てきたこと自体はうれしかった。お気に入りの公園へ散歩してリフレッシュすることもできるし、「これが食べたい」「これが欲しい」と思えるのは、すなおにうれしいことだ。最悪の頃は、1日の大半を寝て過ごし、したいことも欲しいものも思い浮かばなかった。
でも、回復してからも病状は一進一退だ。どす黒い気持ちに支配され、毒を吐くような発言をしてしまうことも多い。よくなったと思って動いたら、すぐに疲れてしまうこともある。困ったことにその疲労は、自覚するより早く態度に表れる。本人ですら気づいていないのだから、周りにはまったく体調の変化はわからない。顔色が悪くなるわけでも、倒れるわけでもないからだ。さっきまでふつうにしゃべっていたのが、急に思考が回らなくなる。頭の中で考えているゴチャゴチャを、言葉にして表現する回路とつながらなくなる。
夕食の支度をしようと野菜を切っている最中に、急に限界が来ることがあった。そんなとき、私は隣の部屋でパソコンに向かっている夫に頼む。「ごめん、もう料理できない」と言うと、何をつくるつもりだったのかを聞いて夫が続きをやってくれる。
そんな風にスムーズに助けてもらえるときは、まだいい。難しいのは、そんな風にできない場合のほうが多いことだ。
この頃、夫はよく「前みたいに黙って寝ていてくれたほうが、めんどくさくなくてよかった」とブツブツ言った。なぜなら私の体調がクルクルと変わるからだ。急に泣き出したり、動けなくなったり、暴言を吐いたりしてパニック状態の、何ともうざい人間になってしまう。私自身は、その変化をあまり自覚していなかった。急に動けなくなったぐらいは自覚できるが、毒を吐いているとは気づいていない。だから、そのまま大ゲンカに突入することもある。
私としては、パニックになったら、優しくなだめて座らせるか、場合によっては泣いている子どもをあやすように抱きしめて「大丈夫」と言って欲しい。しかし夫は、暴言に反応して怒り出す。怒られるとこっちも負けまいと、ますますキレる。ヘンになってしまっているのを止めて欲しいのに、優しくして欲しいのに、そんな虫のいい反応はしてくれない。
夫は反応が速く、曲がったことを許せないタイプである。だから、私の体調がおかしくなっていることに気づくより早く、おかしな発言に対して怒り出す。負けず嫌いの私がやり返すと、当然彼の怒りも大きくなる。
また、夫は何でもきちんと理解しようとする。それは人として尊敬できる側面ではあるが、言語の回路がちゃんとつながっていないときに「何でそんなことをするのか言え」「何でそんなことを言うのか説明しろ」と言われても、アワアワとなっている私に説明できる言葉は浮かばない。モヤモヤとした考えを、言語化できなくなるのだ。まるで子どものように。小学生が、親から「何でそんなことをやったか言いなさい!」と叱られても、ちゃんと説明できないことがある。あるいは、大人たちが誤解して怒っているときに、「本当はこうだったんだ」と言うことができない。子どもには、的確に説明する能力がない場合もあるし、自分で行動を言語化できないところがあるからだ。それと同じ。うつには、退行を起こすところがある。
「そういうときは言葉が出てこないねん」と言えるようになったのは、それから1~2年後。その説明を夫が理解するのは、さらに何年も先だ。自覚がないままに暴言を吐き、自覚がないまま言葉が出てこなくなったあの頃、私たちは本当に激しいケンカをたくさんした。ご近所の人は、「なんて仲の悪い夫婦だろう」、と思っていたことだろう。
怒られている間に、私はだんだん体調が悪くなる。そして足に力が入らなくなって床に倒れ、泣きじゃくってついには過呼吸になる。夫は怒りが収まらないまま、それでも私を放っておけないので、布団を敷いて私を引きずっていき、白湯を持ってきて飲ませる。そんなことがくり返された。
あまり回復が感じられなくなっていたあの頃、夫を慕う年下の男性が遊びに来たことがある。私も夫と一緒に何度も会っていて親しく、私の病気のことも知っている人だ。
夫は客を招くのが好きな人だが、私が病気になってからはそれができず、彼は久しぶりの来客だった。せっかくなのでお好み焼きをしよう、と思いついた私。お好み焼きは関西人にとって、鍋料理と同じく、人が集まったときに楽しみたい料理だからだ。
しかし、それが実は当時の私にとって難しい料理だと気がついたのは、うまくひっくり返せずパニックになったときで、もう手遅れだった。
うつのときは、一度にいくつもの作業を並行して進めることができなくなる。もともと不器用でシングルタスク・タイプの私は、うつになってそれがますますひどくなり、多くのことを処理するときは、全部を考えないで、ゆっくりと一つ一つ順番に片づけることで、日常生活も仕事も切り抜けてきた。
お好み焼きは、悠長に構えてはいられず、瞬発力と集中力を要求する料理である。しかし、うつのときは集中力が下がる。料理ができなくなるのは、その集中力低下のせいでもある。その中でも、瞬間を見極めるお好み焼きの難しさを、私はわかっていなかった。
まず、小麦粉と卵、切ったキャベツなどを加える。わが家にホットプレートはないので、フライパンで1枚ずつ焼く。豚バラ肉の薄切りをのせ、具材を投入し、丸く形を整えるところまで、一気にやる。そこまでは何とか順番通り、がんばってできた。
難しかったのは、頃合いを見てひっくり返すところだ。焼け具合を見極めること。十分焼けて、しかし焦げつかないときを見計らうこと。そして崩さないでひっくり返すこと。どれも集中力が要求される作業だ。一気にひっくり返す作業には、瞬発力も必要になる。
ところが、フライパンへ順序よく材料を入れるだけでかなりパニックになっていた私は、材料をたくさん入れ過ぎ、大き過ぎるお好み焼きをひっくり返すときに、グチャーッとつぶしてしまった。しかもひっくり返したのが早過ぎて、中身は半生である。
もうお好み焼きの形をしていないそれを見て、たぶん夫と2人だったら泣きわめいていただろう。さすがに親しいとはいえ他人がいる中で、駄々っ子みたいに泣きわめくことは抑えた。それでも、半べそになりながら、「ごめん、失敗した」と言うしかない。
結局、夫が後を引き継いで人に出せるお好み焼きをこしらえてくれたが、お好み焼きがそんなに難しい料理だなんて思いもよらなかった。何ができて何ができないか。それすらも自覚できていなかったこの頃は、私自身はもちろん、一緒にいる夫にとっても一番大きな試練の時期だったのかもしれない。