怒り”は真っ当な感情!? ブッダからツイッターまで「怒りの歴史」から日常生活の怒りとの向き合い方を考える!
公開日:2021/5/24
怒りを捨てよ
慢心を除き去れ。
いかなる束縛をも超越せよ。
お前と形態とにこだわらず、
無一文となったものは、
苦悩に追われることがない。
『ブッダの真理のことば 感興のことば』(中村元:訳/岩波書店)
SNSが登場する以前、他人の「怒り」はなかなか目に見えることはなかった。テレビのワイドショーで芸能人が怒りを露わにしていたり、ドラマの中で役者が演技をしていたりするのを見るくらいで、「怒り」は自身のリアルの世界では遠い感情だったと記憶している。性差別、人種差別、LGBTQ、フェミニズム、セクハラ、パワハラ、左翼、右翼、貧富の差……。
SNSで検索すれば、いつもだれかが怒りを露わにし、大小様々な炎上が見つけられる。今、普通の人の「怒り」が見えている。
我々が見ている人々の「怒り」の正体はなんなのか。そしてその「怒り」とはどのようなものなのか。
『怒りの人類史』(バーバラ・H.ローゼンワイン:著、高里ひろ:訳/青土社)では、人類が強い情動である「怒り」とどのように付き合い、考えてきたのかを解説している。
ブッダは、「怒り」は憎しみのひとつだとして「怒りを捨てよ」と言った。怒りは他者を傷つけ、怒る人も苦しむと。
またキリスト教でも“憤怒”という情動が七つの大罪とひとつとされた。
古代エジプトでは廷臣(宮廷に仕える人)や実務家に向けた助言の書には「口汚い人間と口論してはならない」「頭に血が上っている人には気をつけよ」と、怒りの言葉がもたらす害について注意するようにと書かれているという。
哲学では、ストア学派のセネカが「怒り」に身をゆだねることは理性を失うことであるとし、「怒り」が悪徳だとする考えがあった。しかし一方で、アリストテレスは「怒り」は理性的であると考え、正当で気高い行いであると考えた。
「怒り」は愚かなことなのか、それとも真っ当な感情なのか。本書は宗教や哲学、思想から様々な定義と解釈を覗き見ていく。
中世ヨーロッパでは「怒り」を表明できる人は聖職者や騎士といった「価値のある」人物(主に男性)が怒るときのみ、理にかなうとされた。しかし中世後期になると啓蒙主義によって怒りは道徳的な役割を与えられ、ルソーは不正義に対する怒りはあらゆる男性と女性の権利と義務である書き、17世紀から18世紀の間に、「怒り」は理論上民主化されたという。
怒りという感情を民衆が持つことが公に許されたことで、今度は国家が国民をまとめるために「怒り」を利用するようになった。国境を越えてくる移民、他民族、他人種への怒りを国家が扇動する。
本書で語られる歴史の中のこれらの「怒り」はそのまま現代へと映し出される。
礼儀作法の本では怒ることは勧められていないし、「怒り」をコントロールするアンガーマネジメントの教室は数多くある。しかしインターネットやフェイクニュース、メディアなどが「怒り」を増幅させ、歴史の中で人類が築き上げてきた「怒り」を捨てる、制御する、批判するといった伝統を見失いつつある。かつて「怒り」をあらわす際に、激情、憤怒、憤慨、激怒、復讐心、不機嫌などたくさんの言葉が使われ、それぞれが僅かずつ違ったニュアンスを持っていた。しかし現在は「彼は怒っている。私は怒っている」のようにひとつの言葉に集約してしまう傾向があるという。
たとえば、MeToo運動では女性たちの「怒り」の前に、苦痛、悲しみ、癒し、共感といった情動があることを理解しなければならないのだ。
怒りはひとつではない。人々が自由であればこそ、他人の怒りを否定してはならず、その怒りの価値と根源を理解することこそが大切だと本書は説く。
そのほか、アウシュヴィッツの捕虜にはなぜ「怒り」が存在しなかったのか、また女性と男性で異なる「怒り」の表現、女性が「怒り」を表明することが歴史上偏見にさらされてきた事例なども紹介。
『怒りの人類史』は、「怒り」を見かけた際には、その「怒り」がどんな種類で、どこから生まれ、どこに向けているのかを冷静に見極める知恵を授けてくれる一冊である。
文=すずきたけし