ロンブー田村淳さんが母との別れを経験して考えた「死を意識して生きることの大切さ」

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更新日:2021/5/31

生きたいように生き切ることを、大きなゴールにしたい

田村淳

──本書の巻末には、修士論文も一部を抜粋して収録されていますね。大学院では、どのようなお勉強をされていたのですか。

田村 僕は、〈ITAKOTO〉という遺書動画サービスを考え、設計して、ローンチするまでのあいだに必要なものはなにかということを学ぶ学科──メディアデザイン研究科というところに在籍していました。サービスを構築するまでに必要なものを研究するのですが、サービスの内容が遺書動画ですから、死にまつわるデータも多く扱います。研究は、実際に遺書を書いてもらって、「どんな気持ちになりましたか」とインタビューをするなどしつつ進めました。これまでは、遺書を発信する側の気持ちしかデータの収集ができていないので、今後は研究員として大学院に残り、遺書を受け取る側の気持ちも含めた研究を続けようと考えています。

 遺書って、ほとんどの人が、自殺する前とか、病気などで死ぬことがわかっているときとか、死ぬ直前に書くものだという意識を持っていると思うんですよ。でも、実験の場で「はい、今から書いてみてください」と言われて書いてみると、たとえ心の準備がなかったとしても、多くの人が「チャレンジしてみてよかったです」「また書きたいです」という声を聞かせてくださいます。もちろん、「死に向き合いすぎて気持ちが落ちました」という人も1割くらいはいらっしゃいますが、8、9割の人は、「書いてよかった」というポジティブな考えに至るようですね。

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 よく「死ぬ気でがんばります」みたいなことを言いますが、僕は一番簡単に「死ぬ気」になれるシステムが、遺書を書くことだと思っているんですよ。遺書って、とくにがんばらなくても、死ぬ気にならないと書けませんから(笑)。でも、そんなふうに死ぬ気になって、残される他人のために書いた文章が、自分にガンガン突き刺さってくるという感覚を味わった人は、「もう一度書きたい」という気持ちになるようです。そのあたりの感覚もきちんとサービスの中に落とし込んで、使いやすいものにしていきたいと思います。

田村淳

──淳さんも、ご家族宛に遺書を書かれているそうですね。

田村 そうです。だから、憂いはひとつなくなりましたね。たとえ今、この建物が崩れて僕が死んでしまったとしても、妻や2人の娘に残している動画がありますから。お別れは悲しいけれど、なにも残していない人よりは、憂いなく死んでいけるかなと思います。それに、遺書を書くことで、人生を死ぬところからの逆算で考えられるようになる。自分が最終的になにをしたいかが明確になりますから、次に取るべき行動がわかりますし、あるいは、働きすぎに気づくという人もいるでしょうね。いずれにしても、「理想に最短距離で近づくためにはこれだな」というふうに、あまり悩まずに生きられるようになる気がします。

 現代人って、知らないあいだに他人軸で生きていることが多いと思うんですよ。比べられることが当たり前の義務教育で育って、会社に入っても比べられ、自分の軸や、自分の視点みたいなものを見失ってしまう。でも僕は、研究を進める中で、たくさんの他人の遺書を見てきました。そこには本当にそれぞれの物語があるのだと知った上で思うのは、「自分の人生の当事者は、自分でしかない」ということ。他人の遺書の代筆は、誰にもできませんからね。その人の人生は、他人がどうこうできるものではないし、本人が振り返って見つめ直すしかないんですよ。遺書を書くと、自分の視座がはっきりしてくるんじゃないかな。

 僕の母ちゃんも、やっぱり唯一無二の人間で、僕のたったひとりの母ちゃんです。その母ちゃんとのお別れについて紡いだこの本を、「田村家の場合」というひとつのストーリーとして読んでもらって、それぞれの家庭で話すきっかけにしてもらえるといいなと思いますね。もちろん、すべてについて共感してもらうことも求めていませんし、僕、恋愛にしても仕事術にしても、マニュアル本が大嫌いなので(笑)。田村家の物語を見て、「うちの場合はどうだろうね」と話し合ってもらう、そのつなぎ役に、この本がなれたらいいなと思います。

 僕自身も、自分の人生、自分の軸で、自分のやりたいことをやれているだろうかということは、常に考えていたいですね。最近、気に入っているのは、社会心理学者・加藤諦三さんの、「人間の唯一の義務は自分であることだ」という言葉。死ぬ間際に、自分の生きたいように生き切れたと思えることを、大きなゴールにしたいです。