平野啓一郎『本心』ロングインタビュー!「強調したかったのは、愛する人が他者であるということはどういうことなのかというテーマです」
公開日:2021/6/15
死の自己決定権と分人主義
『本心』は、2040代年初頭を舞台に展開する近未来小説だ。主人公・石川朔也の母親は、平野さんと同じロスジェネ世代の人間である。現代の日本で顕在化している貧困や高齢化や社会保障制度や環境など、様々な問題がSF的な視点から描かれていく。SFの略語の一つであるスペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)の構造を導入することで、社会問題を外挿化したシミュレーション小説でもある。
「僕は熱心なSFの読者ではありませんが、SFを読んでいて時々不満に思うことがあります。テクノロジーは全体的にアップグレードされ、同時に思想や人間観も更新されるはずなのに、局所的に進化している話が多いんですね。『ドーン』で書きたかったのは、世界の全体的な変化に呼応する形で分人主義のような考え方が生まれる状況でした。『本心』でも、社会全体の変化の動向とそれによって変質する人間観について書きたいと思いました。具体的な話として、僕には今年8歳と10歳になる二人の子供がいます。いまの世界を見ていると、どうしても悲観的な未来を考えざるを得ません。いったいこの子たちは、どういう世界をどのように生きていくのだろう、と。子供たちの今現在の教育のためにも、20年後の世界について真剣に考えなければならないと思いました」
もう一つ、本作で重要なSF的なギミックが、亡くなった人間を仮想空間上にAIとして甦らせるVF(ヴァーチャル・フィギュア)という技術である。『空白を満たしなさい』で描かれた「死者の甦り」の主題が、新たな観点で展開される。
「僕が1歳の時に父親が36歳で亡くなりました。父親に関する情報として、写真やカセットに録音した声が残っています。そして、母親や姉から聞く父についての話。僕にとって父親というのは、メディアと言葉を通じての存在です。デジタル化によって、僕たちは膨大な写真やビデオを撮影し、同時に撮影されることになりました。メディアは一方向的なものから双方向的なインタラクションを含んだものへと進化しています。そのイメージの具体化がVFです。死者が仮想空間上で再現される未来は、現実味があると考えています」
29歳の石川朔也は母親の死後、母の遺したマンションに一人で暮らしている。朔也は依頼者に替わって遠隔で様々な仕事を行うリアル・アバターという職に就いている。70歳を目前にした母親は「自由死」を希望するが、朔也はそれを認めない。朔也が海外出張中に、母親は事故で亡くなってしまう。朔也は母親の「本心」を確認すべく、母のVF製作を決意する。個人が自分の死の時期を選択可能な自由死が合法化された設定には、平野さんのどのような思いが投影されているのだろうか。
「自由死は、分人主義から派生したコンセプトです。自分が死ぬ際、どの分人で死ぬのだろうかという問いに発しています。<死の一瞬前>の状態を想像するところから始めました。この先も生き続ける愛する人と死をシェアしながら死ぬことを幸福な死と考えるのであれば、誰もが幸福感を感じられる分人として死ぬことを希望するはずです。ただ、一般的に、親しい人の死に目に会うのは難しいことです。事前にスケジュールされないと死は共有されません。オランダでの安楽死の事例などを見ると、安楽死が決まると親しい者が集まって病室でパーティとかをするんですね。お別れをした後に、注射を打って亡くなる。そのパーティの風景をネットで見て、ショックを受けました。人間は一人では生きていけないと言われますが、死は一人で受け容れるものだと考えられています。でも本当は、死もまた誰かと分かち合いながらでないと到底受け容れられないような恐怖を伴うものなのではないか。僕たちは孤独死という言葉にすごく敏感に反応しますよね。つまり、独りで死ぬことへの強い恐怖があります。
安楽死のその先には差別的な優生思想が控えています。国の負債が積み重なり国家予算が乏しくなっていく中で、国家に救われる人をセレクトする圧力が強くなってきています。外国人への医療補助の打ち切りを行うべきだというような差別的な言説や、相模原障害者施設殺傷事件のような優生思想に基づいた凶悪犯罪も発生しました。僕は人の命が役に立つかどうかでジャッジする考えを強く否定しますし、弱者に押しつける形で死の自己決定権の問題を議論するのは間違っています。<死の自己決定>については、哲学的な問いとして長年の積み重ねがあります。そのことについて考えることは、最終的に生きることを肯定的に考える思想へとつないでいかなければならない。津久井やまゆり園のような事件が起こったら、むしろ死の自己決定権に関する議論は、一旦、止めなければいけないはずなんです。平時は何も議論せず、事件が起こると弱者に押しつける形で死の自己決定権について語ろうとする一部の人たちを批判しています。
生殖医療には人間の手が相当入ってきていて、人工的にコントロールしていこうとする動機づけがあります。死に関しては、延命だけで、自然に任せるべきだという旧来的な考えのままです。安楽死を認める国は増えつつあります。日本で本格的に安楽死の議論が始まる前に、人間が自分の命の時期を決めることの意味について小説の中で考えておきたかったんです」
愛する人の他者性を受け容れること
AIの母と暮らし始めた朔也は、母の「本心」に迫るために、母の主治医や母が働いていた旅館の同僚であった三好彩花と面会する。母親が芥川賞作家の藤原亮治の熱心なファンであったことを彼女から知らされる。他者とのコミュニケーションを通して、朔也の中で母親についての情報が更新されていく。さらに、リアル・アバターの仕事中に生じた小事件をきっかけに、年収5億円とも噂されるアバター・デザイナーの青年イフィーとの出会いがもたらされる。朔也と三好とイフィーの三人は、疑似的な家族関係で結ばれることになる。
「自己と他者の関係の複雑さを描くことが、この作品のテーマの一つでした。リアル・アバターの仕事をする主人公は、依頼者の指示通りに動く経験から、イフィーを通して三好を愛することが可能かどうかというアクロバティックな思索を試みます。家族制度が崩壊の危機に瀕している現在、そもそも家族とは何なのかという根本が問われています。保守派は家族を特権化しますが、社会保障制度が破綻しそうだから、家族が面倒を見ることは当然という言説を「伝統」として語り、新自由主義をイデロギー的な美名でコーティングして推し進めようとしています。朔也と母親のような限界状況的な親子の結びつきが強化されていく一方で、その枠組みから離れた疑似家族的な形態は、今後ますます広まっていくでしょう。朔也と三好のように、恋愛感情抜きで同居する人たちも増えていくのではないかと思います。男同士でも女同士でも気の合う他人と一緒に生活して、養子をもらって子供を育てることも一つの選択と見なされる日が来るのではないか。朔也の母親が実践したように」
東日本大震災のボランティアで知りあった友人の女性と一緒に共同生活をしていた朔也の母親は、40代になって第三者からの精子提供を受けて妊娠、出産し、彼女と一緒に子供を育てる計画を立てる。友人は妊娠中の母親を置いていなくなる。その後、朔也を産んだ母親は、独りで息子を育てる決意をする。
「朔也の母親は、あるべき家族観というか、理想像を自分に課している世代です。家族が持てないことに気づいた時に、代理的な方法で実現しようとします。朔也の母親のように男女の結婚という形態を経由しない形で子供を持つためには、非公式の精子提供に頼らざるを得ません。僕はそれを否定しませんが、生まれてくる子供たちが成長過程において、どのような自己認識を得ることになるのかが気がかりです。決定稿では、最終章のタイトルを『最愛の人の他者性』としました。この小説のテーマとして、愛する人が他者であるということがどういうことなのかを強調したいと思いました。主人公は、徐々に母親を他者として理解していきます。そして、自分も母親に対して他者になっていきます。愛することは相手をそのまま理解することですが、そこにはあるべきその人のイメージを強要する感情も含まれています。愛するとはどういうことなのか。およそ自分が受け容れがたい何かを愛する人が考え、実行しようとしている時に、それを理解し受け容れることが愛なのか。それとも、その人の考えを変えようとするのが愛なのか。そのテーマが朔也にとっての自由死の問題に帰着するわけです」
第4期から第5期へ——コロナ禍後の文学
自由死を願った母親の「本心」に迫ろうとする朔也だが、様々な人と出会い、母親についての未知の情報に触れ、自分が知らなかった母親の人生を知ることで、一人の女性として生きた母親を肯定する境地へと誘われていく。分人論から言えば、生前の母と対していた時の自分の分人とともに生きる決意が、朔也を穏やかな場所へと連れていく。
「本心は人間の関係性とか、社会制度に深く関わっていると思うんですね。安楽死の話題に戻りますが、オランダのように合法化されている国では、厳密な条件があって、登録医が患者の意志を確認する作業も重要視されます。最終判断の基準は本心かどうかということだと思います。思い惑う心の様態と本心は異なるものです。本心を探ることは困難を伴います。本心は両義的な言葉だと思います。この作品では、本心とは何なのか、本心をどう受けとめたらいいのかを、主人公の移動と思考のプロセスに絡め、流動的に描くことを心がけました」
小説本文中に「本心」という言葉は30回以上登場する。それらの一つひとつが異なる意味、異なる文脈で使われていることに注目すべきだろう。本書は主人公の母親の本心だけでなく、主人公を含む登場人物それぞれの本心をあぶり出す小説でもある。
「『マチネの終わりに』では出来事をタイトルに集約しました。『本心』では、むしろ言葉を分散化させて、意味が不分明になっていく状態を意識しました。わからないことが重要なんです。特定されない何かが混ざっている。純化できないものの存在こそが、小説を書く上で必要です」
死後も他者の中に生き続ける分人の可能性を模索した『本心』は、平野啓一郎の第4期の締めくくりとなる予感に満ちた作品である。第4期から第5期へ。分人の次に見いだされるべきテーマは、平野さんの中にすでに胚胎しているのだろうか。
「『本心』は第4期の最後に位置する小説ではないかという予感がしています。次から新しいシリーズを始めたいと考えています。分人は僕の根本の考え方なので、そこから大きく逸脱することはないと思います。今年の後半からはしばらくの間、短編を書いて、次に向かうべきテーマを自分なりに考えたいと思っています。コロナ以降、世界の様相は大きく変わりました。コロナの影響は今後10年単位で、世界中に大きな後遺症を残すと思います。コロナ後を生きる人間に向きあうことは、第5期のテーマの一つになるでしょう」
コロナ禍はコミュニケーションを断絶させ、人と人の関係を対話(ダイアローグ)から独白(モノローグ)へと変質させた。分人化を阻害するコロナ禍によって、分人主義は大きな宿題を課せられたとも言える。
「コロナ禍によって分人が制限された状態になっています。分人主義にとって問題山積です。コロナ禍に加え、地球温暖化が切実な段階まできているので、環境問題にどれだけ本気に取り組めるかが、この先の全世界的な課題になっていくでしょう。環境と分人の関わりについて考えていく必要があります。よくある分人主義への批判として、そうは言っても家で独りでいる時の自分というのは対人関係に惑わされない本当の自分なんじゃないか、という考えがあります。極寒の状況下でホームレスとして戸外で寝ているのと、温泉宿でくつろいで露天風呂に浸かっているのとでは、同じ人間でも考えることはまったく違ってきます。環境が異なる分人をつくりだすわけです。地球温暖化が進行すると、心地よい自分でいられる時間は確実に減っていくわけで、そうした点からも環境と分人主義の関わりについて考えていかなければならないと考えています」