明治に語られた「実話怪談100話」とは? 当時の人々が持っていた幽霊に対する恐怖心と探求心
公開日:2021/6/2
百物語。そう、ろうそくのもとで数人が集まって順に怪談話をするものだ。100話に達したとき、何かが起きるかもしれないというあれだ。この百物語を実際に行ったときの怪談100話が1冊の本になったのが『実話怪談 幽霊百話』(左右田秋満:編、志村有弘:訳/河出書房新社)。本書は、明治32年(1899)3月26日丑三つ時(午前2時頃)、お寺のお堂で33人が参加した語りの記録で、明治33年(1900)に其中堂書店から出た書籍の現代語訳となる。なぜ今この幽霊百話が改めて出版されたのだろうか。そんなことを思いつつ、ページをめくっていく。
最初に驚いたのは、この百物語は参加者に「語る怪談話は物語に伝わっている有名なものでは駄目で、すべて実際の名前と場所のわかる具体的な話をせよ」とあらかじめ通達されていたことだ。はたしてどんな話が語られたのだろうか。
心霊写真は明治の世にも人気?
明治15年頃の熊本県。写真師の豊瀬さんのところに、兵士2人が写真を撮りにきた。2人がポーズをきめ、豊瀬さんがまさに撮影しようとしたそのとき、突然もう1人の兵士が入ってきて「一緒に写そう」と言う。この兵士は、2人と知り合いで、今まさにポーズをきめた2人の真ん中に立ったところでパシャリ。
兵士たちが帰った後、豊瀬さんが暗室に入り種板(写真の原板)を確認すると、どういうわけか3人写したはずが4人居る。こんなおかしな写真を渡すわけにはいかないと困っていると、兵士たちが急かしてきた。もはや隠すことはできないと豊瀬さんが種板を見せると、撮影時に真ん中に立っていた兵士が顔色を変えた……。
この、居るはずのない人物が写っているという事件は、あっという間に町中に知れわたり、「真ん中に立った兵士は鹿児島県の人で、西南戦争のときに軍中で負傷者に対してお金を盗んで殺したことがあるので、4人目は彼に殺された者に違いない」という話になった。なお、詳しくは当時の熊本新聞に記載があるとのことだ。
ところで、このような幽霊について、この場に参加した人ならびに明治の人々はどうとらえていたのだろうか? 本当に幽霊を信じていたのだろうか? 本書を著した左右田秋満は、冒頭でその答えともなる自分の考えを次のように述べている。
「西洋の国から伝わってきた何とかいうものを学ぶ人たちは、神仏のお話をあるはずがないことだと言っているようだ。(中略)道理に合わないという理由のようである。そもそも、その道理というものは、どのような基準によって定めているのであろう。」
言わんとするところを推測するに、「西洋の科学が入ってきて、知識人たちは目に見えない道理のつかないものは無いといっているが、ちょっと前までは神も仏も幽霊も、河童も天狗も人の魂も、等しく存在したではないか」と知識人たちを皮肉っているようだ。そして、今(著者が本書を執筆した明治期)の知識は究極ではなく、今後幽霊の真実を知る日が来るかもしれないとも述べている。たしかに、道理や科学は、時代によってその常識が変わる。急速な変化に直面した文明開化の世の生の声として、説得力がある文章だ。
私たちが生きる現在、今後幽霊について科学的な説明が付く日が来る可能性はないとは言い切れない。それに、説明がつく云々は別として、現在、知識のアップデートができている人とできていない人との差が開いており、お互い話が通じないという問題も起きていて、何が科学で何が常識なのかますます混沌としている状況であると感じる。そう思うと、この百物語が今の世に刊行された価値はなかなかに深い。
文=奥みんす