「時間は巻き戻せないのにどうして後悔し続けてしまうのだろう」忘れられない過去に苦しむ人へ

文芸・カルチャー

公開日:2021/6/4

 過去に殺されそうになる夜がある。

 それがいいものにつけ悪いものにつけ、あの頃に、あの頃以前に戻りたいと切望しても戻れない。叫び出したくなる恥ずかしさと全身を搔きむしりたくなる後悔、誰に向けることもできない宙づりになった激しい怒り、それらを誰に手向けることもできないから呪い続ける。見えないけれど確実にいて、私たちに必死に訴えかけてくる過去の記憶は、幽霊にも似ているとときどき思う。

 戻れないことがわかっているのに「戻りたい」と考えて苦しむのは、合理的なことではないだろう。だからといって、過去は「とっとと忘れるべき厄介者」なのだろうか。だとしたら、過去は、後悔に伴って突沸する感情は何のために存在しているのだろうか。それらに意味はないのだろうか。

 私たちが、過去と仲直りする方法はないのだろうか。

Ikeda Akuri

 山内志朗さんの『過去と和解するための哲学』(大和書房)には、過去と仲直りするための手がかりになるような倫理学のエッセンスが、いじめやハラスメント、自分探しといった身近に感じやすい話題とともに、全6章に亘って鏤められている。そして、そのスタンスは、『小さな倫理学入門』(慶應義塾大学三田哲学会叢書)同様に、人の弱さ、醜さに寄り添っている。

過去と和解するための哲学
『過去と和解するための哲学』(山内志朗/大和書房)

 たとえば、呪いが主題の「心の中の暗い闇」では、他人を呪い殺すことができないのに、それでも人を呪おうとするのは「呪いが不可能性への祈り」だからではないかという。「あの震災がなかったら」と〈ありえたかもしれない救済〉を祈るように、未来だけでなく、過去に向けた祈りも存在する。名前やイメージといった対象がなければ、祈ることはできず、すなわち行き場のない感情を表すことも、操作することも、制御することもできずに、感情が魑魅魍魎と化してしまうと山内さんは言う。

「だからこうすべきだ」とまでは山内さんは言わない。けれど、人を呪うことは褒められたものではないものの、どうしようもない感情に名前やイメージを与えようとしていた過程自体への寄り添いを感じる。人を呪うのが過ちなのは、呪いの存在自体ではなく、その「運用方法」なのではないだろうか。

 また、「避けられない悲劇」では、突沸する情念の捉え方について触れられている。情念が「爆発」するのは、「安全弁として高まった強度を外に逃す」からで、大仰に言えば、緊急事態における“生命維持システム”とも捉えられる。感情を突沸させて自分を守ろうとしている人に、情念を抑えるよう説く人がいたとしたら、「壊れてしまえ」と言っているも同然だ。実際に、山内さんはこの章をこんな言葉で結んでいる。

「過去と和解するためには怒りや呪いを成仏させなければならない。それこそ自分と仲直りすることなのだ」

 理性と対立する情念は、しばしばないほうがいいとされてきた。しかし、理性に従っていては“惰性で”通り過ぎてしまうところで無理やり止まったり、方向転換したりできるのが情念だ。つまり、情念とはむしろ「未来に向けた能動的行為」であり、未来に進むための追い風ならぬ爆風なのだ。

 しかし、情念をやみくもに発露したからといって、あるいは過去を忘れ去ってしまったからといって過去と仲直りすることはできない。過去の自分も自分の延長線上にある存在である以上、自分を起点にして発露の方向を見定める必要がある。自分の中に宿ったハビトゥス――社会的に維持されるべき〈私〉が習慣化された状態――だけが、答えを知っていると山内さんは言う。それが権力関係なのか、身だしなみなのか、食欲なのか、欲望なのかは人によって異なる。

 荒廃しきった土地で癒しを求めて、自分自身と組み合って七転八倒した先に、過去との和解があるのだ。

文=佐々木ののか、バナー・イラスト=Ikeda Akuri

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。6/25に初の著書『愛と家族を探して』(亜紀書房)を上梓した。
Twitter:@sasakinonoka