なぜ人間は一度きりの人生を生きるのか? 遺伝子が教えてくれる「生きるヒント」
公開日:2021/6/5
「遺伝子」というテーマに、どこか身構えてしまう人も多いのではないだろうか。遺伝子に関するテクノロジーは、禁断の領域に踏み込むようなイメージを抱かれることもある。最近でも、中国で遺伝子を改変した人間の赤ちゃんが誕生したニュースに、危機感を持った人もいるだろう。
生命科学の研究者で、遺伝子情報提供サービスなどを手がける会社を経営する高橋祥子氏による『ビジネスと人生の「見え方」が一変する 生命科学的思考』(高橋祥子/NewsPicksパブリッシング)は、そんな遺伝子への印象だけでなく、自分自身の存在や世界に対する見方を更新する。予期せぬ変化の中で、誰もが何らかの難しい判断を迫られている今の時代の葛藤を解消するような、クリアで痛快な言葉に満ちた1冊だ。
研究者であり、ビジネスパーソンでもある著者はこの中で、生命の原則や遺伝子に関する事実を解説した上で、その考え方が、個人の人生や組織のあり方にどう応用できるかを解説している。その前提にあるのは、「個体として生き残り、種が繁栄するために行動する」というすべての生命の原則だ。そして、私たち人間の行動や性質もこの原則に従っているという。
たとえば、生物が必ず死ぬことにも理由がある。地球上の環境はこれまで何度も大きく変わり、そのたびに人間は進化して生き残ってきた。ただ、人間のひとつの個体が変化して環境に適応するには限界がある。種として生き残るためには、人体の古い細胞が新しい細胞に入れ替わっていくように、古い生命から新しい生命に入れ替わっていく必要があるのだという。
また、人間が抱く感情にも生命科学的な根拠がある。ストレスや不安、攻撃性、孤独感といった感情に関わる遺伝子の存在から、これらの感情も人間が生き延びるための機能であるとわかっているという。怒りは自分を攻撃する敵に対応するため、孤独感は集団生活で生き残ってきた人間がひとりになることを避けるために必要な機能だ。しかし、危険生物から身を守るため備わった感情のすべてが、現在の社会でも有益というわけではない。だから著者は、今ある不安が自分の行動で解消できる不安であれば対処し、行動によって変えられない不安ならば、感情に蓋をすることを勧めている。
またこの書籍のキーワードのひとつが、「多様性」だ。人間は誰ひとり同じ遺伝子情報を持たないとてもレアな存在であり、この多様性は、人間が種として生き残るために採用した方法だという。環境が変わるたび、その環境での生存に有利な特性を持つ人間が生き残ってきた。それが進化だ。環境の変化は予測できないから、進化の過程で多様であることが重要だった。だからひとつひとつの生命は尊いと著者は言う。この言葉は、科学に基づいたドライな結論である一方、とても明快で、さまざまなところで聞かれる「多様性を認めよう」という言葉以上に、胸に刺さる。
遺伝子という難解に見えるテーマながら、この本の内容を自分事として引き受けやすいのは、科学的な事実に加えて、著者の主観が豊かに盛り込まれているからだ。その主観は、著者の研究者・経営者としての迷いなどの実体験に基づいている。著者はこの本で、我々は「生命には原理や原則があることを客観的に理解した上で、それに抗うために主観的な意志を活かして行動できる」と伝えたいというが、科学を学びつつ、人間としての情熱や思いといった主観に基づいて生きることの意義、そして人間だけがそれをできるという喜びを、本書で体現していると感じた。
自分自身の生命としての意義を知って元気が湧き、一度の命を燃やすためにやるべきことに思いを巡らせ、さらには遺伝子に関する知識が身につく。読み終えると、昨日いた場所からぐっと前に進んだと感じる、そんな体験ができるはずだ。
文=川辺美希