やっと絵本らしい絵本が描けた!? ヨシタケシンスケさん最新絵本『あんなに あんなに』ができるまで《インタビュー》
更新日:2021/7/5
〈あんなに欲しがってたのに〉〈あんなにきれいにしたのに〉〈あんなに心配したのに〉〈あんなに小さかったのに〉……。うつろいやすい日々のなかで〈もうこんな〉になってしまった驚きと発見を描きだすヨシタケシンスケさんの最新絵本『あんなに あんなに』(ポプラ社)。くすりと笑えて、じんと泣ける。その読み心地はどこから生まれたのか、お話を伺いました。
(取材・文=立花もも 撮影=下林彩子)
――『あんなに あんなに』は、子どもの飽きっぽさにびっくりしたのが描いたきっかけとか。
ヨシタケシンスケさん(以下、ヨシタケ) 僕はいつも手帳を持ち歩いていて、思いついたことはすぐにスケッチするんですけれど、たいていは描き散らしというか、まとまりのないメモみたいなもので。でも、今回の本に関してはすごくちゃんと発想の記録が残っているんですよ。ほら。
――本当だ。絵本の原型がすでにできあがっていますね。
ヨシタケ そうなんです。〈あんなに欲しがってたのに もうこんな〉っていうのを最初に描いたところから、ぶわーっと構想が広がっていって。〈あんなに〉と〈もうこんな〉を繰り返す絵本をつくったらいいんじゃないかなって描き留めていったのをポプラ社さんに持ち込んだら、ほぼそのまま一冊の絵本になりました。絵本を描きはじめたころは、編集者さんからお題をいただいて発注にこたえていく、というイラストレーター時代と同じスタイルだったんですけれど、最近は、そんなふうにみずから企画を持ち込むことも増えてきましたね。
――企画はどんなふうに思いつくことが多いんですか?
ヨシタケ 基本的にはお題をもらっているときと変わらなくて、日常のちっちゃな瞬間を膨らませて物語にしたいと思っています。どんなに些細に思える出来事も感情の起伏も、人が生きる上で必要なもので、人間らしさを形作っているかけらだと思うから。ただ、どの瞬間に注目するかは、そのときどきの僕の状態や家族との関係によりますね。これまでは単純に、子どもの言動や発想のおもしろさに目が行きがちだったけれど、上の息子が中学3年生になった今、人ってこんなふうに大きくなっていくんだなあ、と感慨深くなることも増えてきた。自分ではない誰かの人生の先が見えてきた、というのかな。小さい子どもを2人抱えていたドタバタの日々とはまた違う子育てのフェーズに入っていたことも、〈あんなに あんなに〉の発想につながった気がします。
――本作には〈あんなに騒がしかったのにもう寝てる!〉みたいな子どもの変化に対する驚きもあれば〈あんなにちっちゃかったのに〉〈あんなにべったり一緒にいたのに〉という、成長とともに距離が生まれてくるさみしさも感じられて、じんときました。でもだからって一緒にいる時間を大事にしなきゃだめですよ、みたいな教訓は一切ないところがヨシタケ流だなあと。
ヨシタケ あ、たしかに、ともすると教訓めいたものになりがちですよね。言われてはじめて気がつきました(笑)。
――そうなんですね(笑)。
ヨシタケ とにかく「あんなに欲しがってたおもちゃを、もうほっぽりだして、なんて飽きっぽいんだ!」という驚きからこの絵本は始まっていて、そのどうしようもなさに、僕は妙に感動してしまったんですよね。楽しいことも悲しいことも、こんなふうにあっけなく終わるんだな。僕らはみな、日々変化し続けるということにただオロオロしながら生きていくしかないんだな、って。
――子どもの飽きっぽさから、そこまで。
ヨシタケ そういう思考の飛躍が好きなんです。「こんなに些細な一瞬から、こんなにも大きな人生の法則を見出してやったぜ!」とニヤリとするのが(笑)。やっぱり、物事にはなんだって理由があるわけじゃないですか。なぜ子どもはこんなに飽きっぽいんだろう? なぜ大人はあんなにイライラしているんだろう? という疑問は“だってそういうものだから”と見過ごされてしまいがちだけど、背景にあるものを探っていけば見えてくる景色もある。まあ、けっきょく「ままならないよねー」「誰も悪気はないんだよねー」みたいな結論に至るだけだったりもするんだけど(笑)、肯定も否定もせずにおもしろがることができれば、生きるのがちょっとだけラクになるんじゃないかな、って。
――だから〈あんなに○○だったのに!〉も怒りにはつながらない。
ヨシタケ そう。「もうどうしようもないよねー、僕たち。でもそうやって生きていくのがあたり前だよねー」って言ってくれる人がいたら、他でもない僕が嬉しいなあって思うから、描いています。というか本当に、どうしようもなくないですか? たとえば親との関係でも〈さっきまで、あんなに和やかに話していたのに!〉ってことの繰り返しでしょう。
――もう二度と喧嘩しないぞ、って思った端から言い争いますよね。
ヨシタケ そのサイクルの短さたるや! どんなに喧嘩しても、理解しあえた気持ちになれても、その状態は持続しない。毎日こつこつ勉強したほうがいいことなんて、みんなわかってるけど、続けられない。僕らが日々に“安定”を求めてしまうのは、それほど安定しない生き物だから、ということだと思うんですよ。でもついつい“親子の時間をたっぷりとりましょう”とか“規則正しく生活しましょう”とか、理想的なことを口にしてしまう。気持ちはわかるんですよ。正しいことを言うのって、気持ちがいいですからね。でも人って、正論を言うのは好きでも、言われるのは好きじゃないんです。ましてや、実行なんて、したくない。
――たしかに、つい、自分のことは棚に上げて正論を口にしちゃいます。
ヨシタケ 子どもにとっての親や先生なんかはその最たる例で、僕も子どものころ、どうして自分もできないことをお説教してくるんだろうかと不思議でたまらなかった。でも大人になった今は、ああ、言われたくないけど言いたい、というのが多くの人に共通した欲望なんだなというのがわかってきた。でもそれも、悪気はないんですよね。僕だって、ともするとやりかねない。だから言うほうも言われるほうも否定したくないんですよ。全員ひっくるめて、「だよねー(笑)」って言いあえるような読み心地の本になればいいなあ、と思いました。お互い、なかなか上手にできないよねえ。どうしたもんだろうねえ、ってこと以上のことは実際に言えませんからね(笑)。
――「あんなに欲しがってたじゃないの!」と怒りたくなる側の気持ちも「だって飽きちゃったんだからしょうがないじゃん」って気持ちも、両方くるんでくれる絵本だなと思いました。今回の絵本では言葉をギリギリまで削ぎ落としているので、読者側に委ねられるものも多いからかな、とも思うのですが。
ヨシタケ 常々、僕の絵本にはテキストが多いなと感じていたんです(笑)。読み聞かせには向いていない、読むのがめんどくさい絵本ばかり描いちゃってるよなあ、と。どんどん言い訳をしたくなるタイプの人間なので、ついつい、言葉を重ねてしまうんですよね。でも今回は、おっしゃるとおり、かなり言葉を削ぎ落とすことができました。絵とテキストがお互いの邪魔をせず、かといってただ補足しあうだけでもなく、重なりあって物語が膨らんでいくという構造にできたので、嬉しかったですね。やっと絵本らしい絵本が描けた(笑)。
――言葉を削るのは、けっこう勇気のいることだったのでは。
ヨシタケ そうですねえ。〈あんなに〉に対する結果を〈もうこんな〉だけで終えるのは、僕にとってもチャレンジでした。どうしても〈もうこんなに汚れている〉〈もうこんなに飽きちゃった〉とか続けたくなってしまうし、言語によっては補足されて翻訳される国もあるんですよ。〈こんな〉ってどんな? というのを読み解くのって、そばに絵があったとしても実はけっこう難しいことなんだな、と思いました。でもそれでも削ることに踏み切れたのは、この絵本を描くにあたって“どこまでいってもけっきょく満足はしないんだ”というところに辿りつけたからかもしれません。
――どこまでいっても、満足しない?
ヨシタケ 生まれてから死ぬまで僕たちは〈あんなに〉と〈もうこんな〉をずっと繰り返していくんだなあ、というおもしろさだけで一冊つくることもできたと思うんですけれど、もう一歩踏み込んで考えてみたとき〈あんなに一緒にいたのに、もっと見ていたい〉という感情もあるなと思ったんですよね。それもスケッチしてあるんですけど……。家族というのは基本的に同じ家で長い時間を共有して過ごすでしょう。子どもが独り立ちするころにはもう飽き飽きしていたっていいはずなのに、でもなんかまだ足りない気がする、もうちょっと成長を見ていたい、そばにいたいという気持ちが生まれてしまう。それをどうにか一言で表せないかな、と思いついたのが〈まだ たりない〉という言葉だったんですね。
――それが〈あんなにあんなにいろいろあったのに〉〈まだたりない〉という見開きに。
ヨシタケ 人はきっと、何かを大事にすればするほど満足することができなくなる生き物なんです。たとえば僕の母が病気になったとき、父は会社も辞めて24時間介護していたにもかかわらず、亡くなったあと、何もしてやれなかったとこぼしていた。仕事でもなんでもそうですが、おそらく中途半端に手をつけている人ほど後悔することは少なくて、全力を尽くしたからこそ“もっとこうしていれば”という不足がどんどん見えてしまい、できなかった自分への無力感が湧いてしまうのではないか、と思います。余談なんですが、僕は『シンドラーのリスト』という映画がとても好きで。
――ナチス政権下のドイツで、ユダヤ人を大量虐殺から救ったドイツ人の話ですね。
ヨシタケ 主人公のシンドラーは命がけで1000人以上ものユダヤ人を救ったわけですよ。でもある場面で彼は「もっと救えたはずだ」と絶望する。この指輪を売れば、あの機械を売れば、あと何人かは救えたはずなのに、自分はいったい何をやっていたんだ、って泣き崩れるんです。そのシーンが僕はすごく好きで……。泣き崩れる必要は全然ないし、“ここまで”という線を引けないのは一種の弱さかもしれないけれど、すごく人間らしいじゃないですか。そんなふうに人は、何かを大事にすればするほど欲張りになって、全力を尽くせば尽くすほど自分の不甲斐なさに打ちのめされてしまう。でも、それでも生きていくのが人生というやつなんでしょう。だからその狭間で「こういうこともあるよねー」っておもしろがることで、どうにか前に進んでいけるような絵本を、僕はつくれたらなと思っています。