さびしさを肯定し、読者をそっと包み込んでくれる三浦しをんの小説『エレジーは流れない』

文芸・カルチャー

公開日:2021/7/3

エレジーは流れない
『エレジーは流れない』(三浦しをん/双葉社)

 友達と楽しく過ごしているとき、ふと自分だけが取り残されたような気持ちになったことはないだろうか。あるいは、恋人や家族から大事にされていることはわかっているのに、なぜだか相手を遠く感じて、泣き出したくなってしまう、なんてことは。そんなさびしさを、『エレジーは流れない』(三浦しをん/双葉社)は肯定してくれる。さびしくていいんだ、それは生きるうえで当たり前のことなんだと、読者をそっと包み込んでくれる小説だ。

 主人公は、さびれた温泉街(餅湯温泉)で土産物屋を営む母と二人暮らしの男子高生・怜。同じく商店街に暮らす干物屋の息子・竜人(りゅうじん)に、喫茶店の息子・マルちゃん。住宅街に住む小学校からの友人・心平に、餅湯と敵対する隣町・元湯の住人である藤島。昼休み、5人で弁当を食べる光景は、とくに竜人&心平というトップオブおバカがいては、さびしさと無縁に見える。そりゃエレジー(哀歌)なんて流れんわ、と思ってしまうが、男子高生たちの賑やかな日常が続くのかと思いきや、怜にはとある複雑な家庭の事情があるということがやがてわかる。

 月の第三週だけ、高級住宅街にある別邸で〈おふくろ〉である寿絵ではなく〈お母さん〉の伊都子と過ごすのだ。それがなぜなのか、しばらく読者には明かされない。というか怜自身もわかっていない。物心ついたときからその生活スタイルは確立されており、どうやら赤ん坊のころはほとんど伊都子に育てられたらしいとアルバム写真から察しているものの、どちらが“本当の”母親なのかもわからない。当然、父親が誰で、今はどこで何をしているのかも。だからといって怜がグレたりせず、過剰ないい子となって心を閉ざしたりしないのは(まあ、空気を読む遠慮がちな子ではあるけど)、2人の母親が等しく深く自分を愛してくれていると肌身で感じているから。そして決して事情を詮索することはなく、かといって“なかったこと”にするのでもなく、つかず離れずの距離で見守ってくれる友人たちがいるからである。

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 怜にとって、もちろん“父親が誰か”“どちらが母親か”というのは重大な問題なのだけれど、物語ではそれが人生を揺るがす大事件としては描かれない。町の博物館からたびたび盗まれている土器に心平がつくったレプリカが混ざっていたらしいことや、神輿を破壊しつくす地元の祭りで大暴れした竜人が、元湯出身の最愛の彼女との交際を反対されていることも、怜の家庭環境と同じくらい憂慮すべき事件なのである。

 怜のさびしさは、父親の不在や母親の不確かさゆえにつきまとうものではなく、友人たちとのわちゃわちゃとした日常の隙間にすべりこむ。たとえば、竜人が彼女を慈しむ横顔にこのうえないうつくしさを感じ、果たして自分にはそれほど想える相手が現れるだろうかと胸をうたれたとき。寿絵の、母親としてではない一面を垣間見てしまったとき。

世界を敵味方に分類して考えるひとは、孤独かもしれないがさびしくはないだろう。だれかとわかりあいたい、一緒にいたいと願わないなら、さびしさだって生じようがない

という一節があるが、さびしいのは繋がれていないからではなく、むしろそこに確たる愛があるからなのだ。こんな小説を今まさに読みたかったのだと、一文一文を噛みしめたくなる小説だった。

文=立花もも