しゃべれなかった幼少時代。聞き取れるし意味もわかる、でも言葉が出てこない…これってもしかして?/生きてるだけで、疲労困憊。①

文芸・カルチャー

公開日:2021/7/21

rei著の書籍『生きてるだけで、疲労困憊。』から厳選して全9回連載でお届けします。今回は第1回です。大学在学中に発達障害と診断された“陰キャ・オタク・非モテ”の発達障害会社員”。しんどい社会を少しでも楽に生きる…そんな考え方が詰まった珠玉のエッセイです。

生きてるだけで、疲労困憊。
『生きてるだけで、疲労困憊。』(rei/KADOKAWA)

声が出ない。意思が伝えられない子ども時代

 私の幼少期は言葉が出なかった。

 言葉は聞き取れるし、意味は理解できる。

 しかし、声を出せない。喋れない。

 おそらくそれは、「言語発達遅滞」であった。名前の通り、言語の発達が年齢の標準より遅れている障害だ。

 言葉の発達には「理解力」と「表出力」の二つがある。私は「表出力」が弱かった。自分の意思や考えを、言葉にして伝えることができなかったのだ。

 おそらく、息は吐き出せるが、声は出てこないような状態だったのだと思う。乳児の頃もおそらく声を出して泣いていないはずだ。泣き声も出せず、息をはぁはぁ出すだけだったのではないだろうか。

●絆創膏とマジックハンドで乗り切る

 そのせいで両親にさえ「腹が減った」「怪我をした」「あれが欲しい」といった自分の気持ちを伝えることが困難だった。

 両親はそんな私に絆創膏とマジックハンドを与えた。

 怪我をしたときは自分で絆創膏を貼る。

 手が届かない場所に欲しいものがあるときは、マジックハンドで取る。

 幼いこともあって上手く使いこなせないこともあったが、それでもありがたかった。特にマジックハンドは「あれ取って」という言葉のかわりにもなった。

 ASDには「指差し」がわからないという特徴がある。周りの人間が何かを指差しても、その意図が読み取れない。指自体に反応することが多く、指差した先を見ることができない。

 しかし、マジックハンドを使いこなしていくうちに、指差しの「手や指の延長線上にあるものを指示する」という感覚がわかるようになり、自然と「指差し」が身に付いていった。

●診断を受けていないので何もわからない

 と、色々と書いてみたものの、小さい頃の病状については全く親から聞いたことがないため、全ては推測である。

 さらにいうと、当時何故声を発せなかったのかも不明である。おそらく声だけでなく表情も乏しかったのだとは思うが、それが困りごとになるほど人に接していない幼少期だったのだろう。特に面白いエピソードはない。

 幼少期に病院に行った記憶はなく、おそらく診断を受けていなかった。今考えると、典型的な発達障害の症状が出ていたのだろうとは思う。しかし、わからない。両親に突っ込んで聞いたことはないが、話を聞いたことがないということは、受診はしていないのだろう。大きな傷病以外で病院へ行く機会は乏しかった。

 しかしその件に関しては、特段何も感じてはいない。病院に連れて行って欲しかったかと聞かれても、よくわからない。

 1歳2歳の記憶なんてないので、本当に「よくわからない」という状態なのである。幼い頃の写真も全くなく、手がかりがほぼない状態だ。

 ちなみに、妹の写真はしっかり残っており、客観的に見ると兄と妹で差があるようだ。しかし、食事の準備をしてくれて、洗濯した洋服を着せてくれて、生活をサポートしてくれていたと思われるので、特に不満はない。

「育った環境が少し変わっているのではないか」と言われることもあるが、自分ではあまりわからない。ずっと「これが当たり前だ」と思っていたのだ。

<第2回に続く>