お世話になってないのに「お世話になっております」と言いたくない同僚に説いたこと/生きてるだけで、疲労困憊。⑦
公開日:2021/7/27
rei著の書籍『生きてるだけで、疲労困憊。』から厳選して全9回連載でお届けします。今回は第7回です。大学在学中に発達障害と診断された“陰キャ・オタク・非モテ”の発達障害会社員”。しんどい社会を少しでも楽に生きる…そんな考え方が詰まった珠玉のエッセイです。
「お世話になっております」への違和感
「自分はコミュ障だ」と思っている人間は、実はコミュ障の中でもマシな方だ。彼らは自分のコミュニケーション能力の至らなさを自覚し、コミュニケーションが上手くいかない理由を分析できる程度にはコミュ力があるからだ。
真のコミュ障とは、自身の能力不足によってコミュニケーションが上手くいかないにもかかわらず、それに気づくだけのコミュ力がないので「自分はコミュ障だ」との自認を持つことができない。むしろ相手の方をコミュ障だと認識する。
ちなみに私もまだ「自分はコミュ障なのか」という問いに、すぐさまイエスと答えられない程度には、コミュ障を自認していない。
それは当事者同士でも同様であり、言い方は悪いが、私が働いている障害者雇用部署でも「コミュニケーション能力のある者ほど相手に合わせようとし、コミュニケーション能力のない者ほど相手に合わせず、逆に合わせることを要求するので、コミュニケーション能力のある者に負担が集中する」という構造が生まれている。
●発達障害者の「お世話になっております」問題
また、発達障害者によくあるのが「不合理を嫌うがあまり、マナーや上下関係を排除したがる」ことである。
挨拶をしなくても業務には関係ない、マナーの意味がわからない、何故立場が上というだけで偉そうにされるかわからない……という気持ちから、それらを意味のない行為とみなし、排した環境を求めることがたまにあるのだ。
私が体験したものとしては「お世話になっております」問題がある。
同じ部署の発達障害者社員が、「お世話になっております」に納得がいかず、抵抗を始めたのである。
「お世話になってないから別にいいじゃないですか?」
「まぁ、挨拶だから」
「ならつけなくても実害はないですよね?」
「変に思われちゃうよ」
「変に思われたら何なのですか?」
「……」
こんな感じの水掛け論を20分ばかり行った上司は、比較的物わかりの良い(と思われる)私に説得を丸投げした。そのとき、必死になって調べまくって出した文句が「毛繕いの重要性」を説いたものである。
霊長類学者ロビン・ダンバーは「猿の集団は群れの仲間の識別や親睦を深めるために毛繕いを行っていたが、群れが拡大化するにつれて全員が全員に毛繕いするわけにはいかなくなった。そこで声を用いて仲間の識別や親睦を深め始め、それが進化し言葉となった」という理論を唱えている。
●「おはよう」で人に話しかけやすくなった
とりあえず「合理的でないからやらない」という当事者には「それが合理的である理由」を説明するのがいいと思っている。「慣習」や「そういうものだから」で説得するとさらに頑なになる。というより、それで納得するような当事者は「まぁいっか」と流し、反抗するようなことはしないのだ。
かくいう私も、合理的でない、意味がないと感じることはあまりやりたくないタイプである。しかし、「郷に入っては郷に従え!」とばかりに、朝「おはようございます」と言うようにしてみたら、なんと人に話しかけることへの抵抗がなくなった。
とりあえず朝に「おはようございます」と言えば、相手も「おはようございます」と返してくれて、会話を始めることができる。
コミュニケーションの前準備や意思統一、親しみを感じさせる営為を「おはようございます」だけで叶えられるなら、安いものだなと今では思う。