直木三十五って誰? 芥川賞落選に激怒した太宰治が、選考委員の川端康成に送った手紙とは【芥川賞・直木賞をめぐる面白エピソード】

文芸・カルチャー

更新日:2021/7/14

芥川賞ぜんぶ読む
『芥川賞ぜんぶ読む』
(菊池良/宝島社)
芥川賞の偏差値
『芥川賞の偏差値』
(小谷野敦/二見書房)

 今年も上半期の芥川賞・直木賞の受賞作発表の時期が近づいてきた。とはいえ、この2つの文学賞について「実はよく知らない」という人も多いのでは。芥川賞・直木賞をより楽しむために、これらの賞にまつわるトリビアをご紹介しよう。

菊池寛が創設。賞受賞発表が1月と7月の理由は?

『芥川賞ぜんぶ読む』(菊池良/宝島社)によれば、芥川賞・直木賞は、1935年、文藝春秋創業者・菊池寛が創設した賞だ。芥川龍之介(1892-1927)はともかく、直木三十五(1891-1934)を知らないという人は多いかもしれないが、直木は『南国太平記』などの大衆文学で人気を博した小説家。2人の友人だった菊池は、彼らの死を契機に、大衆文芸の新人に贈る直木賞と、純文学の新人に贈る芥川賞を考案した。選考は上半期と下半期の年2回。『芥川賞の偏差値』(小谷野敦/二見書房)によれば、芥川・直木賞の受賞発表が1月と7月なのは、1年の中であまり本が売れないのが2月と8月で、その間の本の売り上げをあげるために菊池寛が考えたのだという説があるらしい…。真相はわからないが、「日本初のプロデューサー」ともいわれる菊池寛ならそこまで考えを巡らしていそうだと思えてしまう。

芥川賞は名前の最初に「佐」と「島」がつく者は受賞できない?

 また『芥川賞の偏差値』は、芥川賞のジンクスについても紹介している。それは、芥川賞では名前の最初に「佐」と「島」がつく者は受賞できないというもの。一方で、直木賞のほうにこのジンクスはあてはまらないらしい。今年は佐や島のついた候補者はいないが、今後、そういうところに目をつけると、芥川賞がますます楽しくなりそうだ。

芥川賞を受賞したいがために、泣き落としの手紙を書いた太宰治

芥川賞の謎を解く 全選評完全読破
『芥川賞の謎を解く 全選評完全読破』
(鵜飼哲夫/文藝春秋)

 芥川賞の歴史については『芥川賞の謎を解く 全選評完全読破』(鵜飼哲夫/文藝春秋)に詳しい。芥川賞の始まりは太宰治の落選からスタートしたのだという。第1回芥川賞(1935年上半期)で、太宰の『逆行』は候補作に選ばれるも惜しくも落選。太宰は選考委員の川端康成から「作者目下の生活に厭な雲あり」と評されたことに激怒する。太宰は川端に対して「刺す。そうも思った。大悪党だと思った」という脅迫まがいの反論文を発表。さらには佐藤春夫などの選考委員に泣き落としの手紙を送り続けたという。

「いままで運がわるくて、死ぬ一歩手前まで来てしまひました。芥川賞をもらへば、私は人の情に泣くでせう。さうして、どんな苦しみとも戦つて、生きて行けます。」

 芥川龍之介に憧れていた太宰はどうしても芥川賞がほしかったのだろう。だが、泣き落としに左右される選考委員はいない。結局太宰は芥川賞を受賞することは叶わなかった。

主催者から「当選」連絡を受けたのに、落選になった悲劇の作家

 芥川賞候補になること4回、3度目に候補になった時には事務局の手違いで一度は当選通知を受けながらも落選する悲劇に見舞われた作家もいる。それは、吉村昭。第46回芥川賞(1961年下半期)の選考の際、吉村の「透明標本」を推す委員と、宇能鴻一郎の「鯨神」を推す委員とで意見が大きく割れ、2作受賞にすべきか、欠席の井伏鱒二委員に電話で意見を聞くことになった。だが、事務局は先走って吉村に「2作受賞」との連絡をしてしまう。井伏は宇能を推すと表明したため、受賞会見のために文藝春秋を訪れた吉村に伝えられたのは、宇能の受賞と、自身の落選だったのだ。その後、吉村は記録文学の作家へと転身し大きく飛躍していく。もしかしたら芥川賞での悲劇が吉村を奮い立たせたのかもしれない。

 太宰や吉村の活躍があるように、受賞した作品はもちろんのこと、受賞を逃した作家のその後も注目だ。今年は芥川賞・直木賞でどんなドラマが生まれるのか。今から楽しみで仕方がない。

文=アサトーミナミ