かつての日本画の神童が名前を貸して絵を売ることに――「何者かになりたかった」大人の胸をえぐるラブサスペンス!
更新日:2021/7/19
年を重ねるごとに、普通の人なんてこの世にはひとりもいないし、みんな毎日、先が見えない不安と戦いながらも、必死で生きていることを実感する。だが、そのことを頭ではわかっていても、「自分が何者でもない」という事実に、とてつもない虚無感に苛まれることがある。幼い頃描いた夢が叶うこともなければ、これから先、何かの分野で世間から認められる可能性も低い。あるがままの自分を受け入れるのは、なんと勇気がいることなのだろうか。
夏目靫子先生のマンガ『アンタイトル・ブルー』(講談社)は、そんな「何者でもない自分」を、思いもよらぬ方法で抜け出し、もはや後戻りができなくなってしまった共犯者たちのラブサスペンスだ。
物語の主役は、かつて「日本画の神童」と呼ばれたものの、今は家族を養うために美術予備校の事務員として働く荻原あかり・24歳。彼女はある日、白吠埼の海で自殺しようとしていた謎の青年を救い、救急車を呼ぼうとするも、「誰か呼ぶならここで死ぬ」と言われ、自宅で休ませることに。
青年はあかりが寝ている間に、物置部屋にあった初めて使う絵の具で、計り知れない才能を感じさせる日本画を描き上げる。それは、あかりが何百枚描いても評価されなかった、思い入れのある白吠埼の海の絵だった。
何らかの事情で世の中に絶対に名前を出せないらしい、「臣(おみ)」とだけ名乗る、職業も年齢も不明の青年は、自分の描いた絵を「荻原あかり」の名で売ることを提案する。両親をなくし、2人の弟と暮らすあかりたち家族に、「絵で1000万儲けて金はここに置いていく」ことを条件に、自宅に匿うことを約束させる臣。今もまだ日本画家への夢に未練があるあかりは、
「俺は あんたが見たかった景色の続きを見せられる」
…という甘美な言葉に心が揺れ、あっという間に日本中を騙す「共犯者」へとなっていくのだが――!?
臣やあかりの、日本画を真剣に描くシーンに一瞬で心を奪われるのと同時に、日本画家の栄光や挫折、数々の葛藤に、何度も胸が締め付けられた。臣の絵は、画壇の重鎮に認められ、「若手の注目作家」としてあかりの元にテレビ取材が来るまでになる。だが、あかりは、ゴーストライターの容れ物になることで、平然と嘘を吐かなければならない苦しみを味わったり、取材でライブペインティングを要求され、絶体絶命の危機に陥ったり、次々と危ない橋を渡っていくはめになる。
挫折したかつての神童が、世間を欺き、再び「何者」かに成り行く過程は、「いけないことだ」というのは十分にわかっていても、何者にもなれなかった…未だに「何者かになりたい」とくすぶる気持ちが消せない大人が読むと、どうも遣りきれず、切なく苦しい思いが湧きあがった。
見た目はクールなのに、笑うと可愛い謎のイケメン・臣の正体や、ノンストップで慌しく変化していく2人の環境など、本作は、まだまだ気になるところが盛りだくさんだ。“ただのその辺のひとり”である自分自身と、真正面から対峙する勇気のない私は、不安定な道を颯爽と駆け抜ける2人の未来が気になって仕方がない。
文=さゆ