夏目漱石が書いた身の毛もよだつ怪談話――『夢十夜』の第三夜って?
更新日:2021/8/5
寝付けない熱帯夜、怪談を読んで眠らずに朝を迎える……。それもまた夏休みにしかできない贅沢な過ごし方だろう。そんな短い夏の夜におすすめなのが、文豪・夏目漱石の短編連作『夢十夜』の「第三夜」だ。
『夢十夜』は、1908年の7月~8月に『朝日新聞』に発表された短編連作。同作には、現か幻か、実態がつかめない“夢”を見ているような読後感に浸れる10の物語が収められている。
怪談としても楽しめる「第三夜」は「こんな夢を見た。」の一文ではじまる。登場するのは、6つになる子どもとその子をおんぶしている男の2人だけ。
男は“背中にいるのは自分の子だ”という認識はあるものの、その子はいつの間にか目が見えなくなり、髪を剃ったばかりの青々とした頭になっていたという。冒頭から異様な雰囲気が漂う。
「自分が御前の眼は何時(いつ)潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。」
その後も、男があぜ道を歩いていると目が見えないはずの子どもが、「田圃に掛かったね」「そこに石が立っているはずだがな」などと、まるで周囲が見えているかのように背中から男に語りかけてくる。
彼は我が子ながら不気味に感じ、近くの森に子どもを捨ててしまおうと足を速める。すると子どもは、突然こうつぶやくのだった。
「もう少し行くと解る。――丁度こんな晩だった」と脊中で独言(ひとりごと)のようにいっている。
「何が」と際(きわ)どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲(あざ)けるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども判然(はっきり)とは分からない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分かるように思える。分っては大変だから、分からないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分は益(ますます)足を早めた。
そうして2人は雨が降る森の中をさまよいつづけ、ある場所にたどり着く……。子どもが言う「解る」とは何を意味しているのか、その真意はぜひ本編で確認してほしい。
じつは、この第三夜に近い内容の物語は各地の民話や落語、歌舞伎にも存在している。夏目漱石自身が明言しているわけではないが、生前、漱石が落語好きだったことを踏まえると、三遊亭圓朝の創作落語『真景累ケ淵』が下敷きになっている可能性も考えられる。
たった3ページほどの超短編小説だが、不気味な子どもの様子と男の焦燥感、闇夜を歩く大きな不安感に引き込まれる名作だ。眠れない熱帯夜、あなたの背筋を凍らせてくれるのは、文豪の怪談かもしれない。
文=とみたまゆり