マンガの力が医療現場を変える!「グラフィック・メディスン」という考え方【対談】

マンガ

更新日:2021/8/20

「グラフィック・メディスン」とは2007年にイギリスのコミック・アーティストのイアン・ウィリアムズらを中心に提唱された概念で、マンガの表現を通して医療を広く扱う試みとして、医療従事者だけでなく、その他の研究者や表現者が繋がる活動の場としても国際的に広がっている。日本でも2018年に日本グラフィック・メディスン協会が設立され、2019年に『グラフィック・メディスン・マニフェスト マンガで医療が変わる』(北大路書房)が翻訳されるなど、世界的に豊潤なマンガ文化を誇る日本の特性を活かして、グラフィック・メディスンの活動が動き出している。今年5月にはその取り組みのひとつである『日本の医療マンガ50年史 マンガの力で日本の医療をわかりやすくする』(SCICUS)が刊行された。

 新型コロナウイルスの感染拡大が続き医療現場に対する関心が高まっている現在、マンガと医療を結びつけるグラフィック・メディスンの動向も注目を集めることになるだろう。『日本の医療マンガ50年史』の編集を統括した、一般社団法人日本グラフィック・メディスン協会の代表である中垣恒太郎氏と、同代表理事である落合隆志氏のおふたりに話を聞いた。

(取材・文・撮影=すずきたけし)

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グラフィック・メディスンとは

――「グラフィック・メディスン」という言葉を初めて聞いたときにマンガのジャンルのひとつかと思ったのですが、どうやらジャンルではなく「概念」らしいということで、いまひとつピンときませんでした。改めて「グラフィック・メディスン」についてご説明いただいてよろしいでしょうか。

中垣恒太郎氏(以下、中垣):英語圏で「グラフィック・メディスン」を提唱したグループには医療教育に携わっている者が多く、医療従事者が患者に対し、医療情報を伝達するコミュニケーションのツールとして、また、将来の医療従事者に対する教育ツールとしての側面から発展してきた概念です。ワークショップやロールプレイ(複数人が役割を演じて学習する方法)において、マンガをいかに活用するかという観点からも研究が進んできています。医療従事者と患者、それぞれの立場から心象風景を絵で表現し、それを共有する取り組みなども展開されています。医療や健康、病気にまつわる、言葉では表現しきれない領域があることを認識し、絵という表現を通しての癒し効果についても注目されています。

――『日本の医療マンガ50年史』では、「患者とその家族しか持てない(持たない)視点を知るためのマンガ活用」として『ブラックジャックによろしく』(佐藤秀峰/講談社)からがん患者のおばあさんのエピソードが引用され、医療従事者が患者の気持ちに気付くということがありました。医療現場でのマンガの活用はこのようなことでしょうか。

落合隆志氏(以下、落合):医療現場でのマンガ活用というと大げさですが、グラフィック・メディスンを広く考えれば、ヴィジュアル表現を活用し医療的コミュニケーションに役立てようということなんです。ただ英米発祥の概念なので、日本で応用するには工夫が必要です。国民皆保険制度の日本と医療格差のあるアメリカとでは医療制度もそれに伴う文化も違います。

 たとえば、「インフォームドコンセント(患者・家族が病状や治療について充分に理解し、さまざまな医療を選択するための情報共有のプロセス)」が日本に紹介されてから30年近くたちますが、日本人のコミュニケーションにうまくなじんでいるのかどうかは議論がつきません。

 そして、最も大きな違いが両者のマンガ文化のあり方です。英米のグラフィック・メディスンをそのまま日本に持ち込むのは難しい。そのため、まずは日本のマンガ文化の中にある医療マンガのリソースを掘り起こしてみようと企画したのが『日本の医療マンガ50年史』です。

(レビュー)手塚治虫から『リウーを待ちながら』まで! グラフィック・メディスンという概念の登場で新たな使命を帯びた「医療マンガ」の歴史

新たな使命を帯びた日本のマンガ

――『日本の医療マンガ50年史』を読んで、それまで日本のマンガが「医療マンガ」としてまとめられてなかったことに驚きました。

落合:これまで日本のマンガ史において医療マンガは厳密には定義されていなかったんですね。「医療マンガ」と呼ばれてなくても、“医療をテーマにしたマンガ”というのは確かに存在し、それを網羅的にまとめることで見えてくる面があります。日本版の「グラフィック・メディスン」はまだまさにこれから。医療マンガを日本の医療文化にあわせてどう活用していけるかという段階です。

 マンガは制作当時の同時代性を映し出すものです。古い作品には、ジェンダーについて無理解なものとか、発表当時は新薬として扱われたものがいまでは古くなっていたりするものもあります。ただ、ひとりの人間の病気の経験やその家族の体験、ドクターとのコミュケーションといったものは現代に通底し共有できる作品も多数あります。現代では誤っているとみなされる情報は補足したり注意を促したりしながら、人間の情動といった、時代を超えてなお変わらない魅力と力を持つ医療マンガ作品を、医療コミュニケーションの素材として活用できるのではないかと考えています。

中垣:本書では第3章で、2010年代以降を「医療マンガの発展期」と規定しているのですが、この10年ほどは医療マンガのブームと言ってよいほどの活況を呈しています。医療マンガを原作にしたドラマも数多くのヒット作があります。医療は自分の意思に関わらずお世話にならざるをえないもので、自分だけではなく、家族や身近な人も含めれば、誰しも突然に当事者となってしまうものです。

「お仕事マンガ」「お仕事ドラマ」と呼ばれる、業界の裏側を舞台にした物語が人気ですが、「医療マンガ」「医療ドラマ」の人気を支えているのも、こうした業界の裏側をめぐるドラマの魅力が大きな要因となっているのでしょう。それに加えて、病気の当事者としての患者と家族の気持ち、さらに近年の傾向では、医療従事者にもまたそれぞれの人生があり、さまざまな悩みや葛藤を抱えている面を描いている点に特色があります。

 落合さんも触れたように、情報としては古びてしまう面が出てくるとしましても、情動、つまり、気持ちの面は時代や文化を超える力があって、それこそがまさに物語の強みと言えるでしょう。

――この本によって日本のマンガが改めて社会的に医療という新しい使命を帯びたと感じました。50年という歴史とかなり幅広いジャンルの日本のマンガが取り上げられていますが、掲載基準などはあったのでしょうか。

中垣:もともと「グラフィック・メディスン」は、数量化、細分化からこぼれ落ちてしまう層に目を向けるところから出発した概念です。そして、医療マンガにまつわるジャンル研究もまだスタートしたばかりです。本書はマンガ研究者に協力を仰ぎましたが、マンガ研究としての成果のみを目指したものではなく、あくまで「グラフィック・メディスン」を推進する活動として捉えています。「医療マンガ」のジャンルを意識的に拡張しようとしていまして、医療分野の専門性、細分化にとらわれず、生きること、健康と身体にまつわる領域を包括的に扱おうとしています。厳密には医療分野との線引きが難しい、さまざまな精神疾患、介護、セクシュアル・マイノリティの領域も射程に入れています。本書では動物医療まで扱っていてその点はおそらく意見がわかれるところでしょうが、英語圏の「グラフィック・メディスン」から2021年にスタートした「グラフィック・ムンディ」という新しいレーベルでは、生態系や人権までも対象にしていますから、方向性としては共鳴しています。模索段階にありますが、それだけ新しい試みであるということです。

――本書のコラム「貧困と病苦の時代」では、ちばてつやや白土三平、手塚治虫など医療マンガの黎明期の作品を取り上げ、マンガが医療と貧困をどのように描いてきたかが書かれていました。なかには医療マンガではないけれど、ある回だけ医療の話が描かれているマンガもあったのではないでしょうか。

落合:本書ではあえて全体を通して医療をテーマにしている作品を取り上げています。長い連載の中で登場人物が病気になったなど医療マンガ的なエピソードはそれこそ無限にあるでしょう。50年という流れでまとめていますが、これからはテーマで細分化して、エピソード単位でピックアップして精読していくアプローチなども考えています。

――日本の医療マンガはまずマンガの神様である手塚治虫が医師免許を持っていたという奇跡みたいなはじまりですが、闇医者あり、チーム医療あり、精神科あり、看護師ありといろいろな視点があるのも日本の医療マンガの特徴なのかなと思いました。本書を編まれたときに日本の医療マンガから発見などはありましたか。

中垣:「50年史」として設定しましたが、それ以前にももちろん病気や医療従事者を描いたマンガはあるでしょう。また、その直前にあたる1960年代の医療ドラマの流行も下地となったことでしょう。アメリカの『ベン・ケーシー』(日本では1962~64年放映)や、『白い巨塔』(原作小説は1963~65年に連載。ラジオドラマ、映画、テレビドラマ版もあわせてブームを起こした)は今でも医療ドラマのイメージの原型をなしています。

 医療をめぐるマンガ史を歴史の縦軸で見てみることで、作品の初出となるマンガ雑誌文化の発展や、医療監修を踏まえた精密な描写の傾向など、マンガの文化・表現を取り巻く環境の変化が見えてきます。さらに、横軸として同時代の多様性に目を向けてみますと、何といっても題材とスタイルの幅の広さは世界のマンガ文化の中でも圧倒的です。あらゆる病棟、あらゆる疾病に関するマンガ作品があり、チーム医療の高度な発展を踏まえた視点も多彩です。

落合:余談ですが、表紙を時系列で見ていくと面白い発見があります。例えばナースものの表紙は主人公のポーズなど、なぜかデザインが似通ったものが多い印象があります。その流れの中で『おたんこナース』(佐々木倫子:作、小林光恵:原案/小学館)のデザインが異彩を放ちます。ナースの主人公が正面でシャキーンと仁王立ちする表紙はやはり画期的でした。

――佐々木倫子さんは『動物のお医者さん』と『おたんこナース』の2作品が本書で取り上げられてますね。

中垣:『動物のお医者さん』と『おたんこナース』の2作品は、動物医療を描く物語、看護師を主人公にした物語において、その後も常に参照されますね。もともと人気も評価も高い作品でしたが、医療マンガ史の枠組みの中で捉えることによって、ジャンルに対する先鋭性を再認識しました。

落合:これは発見でしたね。改めてその凄さが目に見えてわかった。

――リアルタイムで読んでいた身ですが、『おたんこナース』の登場は佐々木倫子さんの作品だから面白いに違いないという感じでしたが、まさかナースジャンルの刷新がここではじまったというところまでは考えてはいなかったです。

落合:ふたつのジャンルをひとりで作り上げたと言っても過言ではないですね。

――中垣さんはクラウドファンディングの発起人として『テイキング・ターンズ HIV/エイズケア371病棟の物語』(MK・サーウィック/サウザンブックス)というアメリカのグラフィックノベルを翻訳出版されます。

中垣:バンド・デシネ翻訳家の原正人さんによる「サウザンコミックス」という世界のマンガを、クラウドファンディングを利用して翻訳出版するレーベルから刊行できることになりました。

『テイキング・ターンズ』の作者であるMK・サーウィックは、英語圏のグラフィック・メディスンを提唱する中心メンバーのひとりです。「エイズパニック」と呼ばれるほど感染症に対する不安、エイズおよび同性愛者に対する偏見が世界中で沸き起こっていた最中の1990年代のアメリカで、新米看護師としてHIV/エイズ患者のケアに特化した専門病棟に勤務していた体験に基づく物語です。

 特別病棟の創設に携わった医療従事者、現在も存命である病棟の元・患者などからの綿密な取材に基づき、マンガによる回想の手法で描いています。英語圏のグラフィック・メディスンとして扱われているマンガは「グラフィック・メモワール」と呼ばれる作品が多く、日本のマンガでいうとエッセイマンガや自伝マンガに近いものです。医療従事者および患者それぞれの視点からのグラフィック・メモワールが近年目立った動きを示している中で、『テイキング・ターンズ』は看護師の視点からの回想になっています。日本のマンガ作品が感動的な演出などによって物語としても手法としても洗練されているのに比して、素朴な絵柄で、淡々とした筆致に特色があります。日本の読者にとっては、最初はとっつきにくいかもしれませんが、生きることをあるがままに見つめる視点が、日本のマンガ作品とも異なる味わいをもたらしてくれることでしょう。

 日本のマンガ文化は確かに比類なく豊かですが、それでもなお世界のマンガに触れることで、それぞれの特色も浮かび上がってきます。英語圏のグラフィック・メディスンの分野でも評価の高い永田カビさんの作品(『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』『現実逃避してたらボロボロになった話』)のように、英語版(アメリカのセブンシーズ社から刊行)を通して日本のマンガを世界のマンガの枠組みから捉える動きも活発になってきています。

日本版グラフィック・メディスンのこれから

――グラフィック・メディスンが今後の日本で認知され広がっていく、その先はどのようにイメージされていますか。

中垣:『日本の医療マンガ50年史』として2020年までの作品をレビュー集としてまとめてみましたが、その後も魅力的なマンガ作品が続々と登場してきています。文化としての医療マンガのリソースをこれからどのように活用していくことができるかを引き続き考えたい。アーカイブ化を踏まえたキュレーションとして、たとえば、細分化したテーマに基づいて5~10作品をまとめて紹介し、それに対して複数の視点からの読解を試みることで、医療・健康・生きること・疾病などにまつわる対話の場を作っていきたいと考えています。

 日本グラフィック・メディスン協会としては、医療現場や医療教育、倫理学や人類学などの人文系研究者、ヴィジュアル表現に携わるアーティストなどがそれぞれの専門領域の知見を持ち寄り、医療や健康に関心のあるあらゆる人たちが最先端の情報や現場の話に気軽に触れることができるような交流活動を目指したいですね。

落合:日本グラフィック・メディスン協会のスローガンは「マンガで日本の医療をわかりやすく!」です。このスローガンの中の「わかりやすさ」は、情報をかみ砕いてわかりやすく伝えるということだけではありません。誰しもマンガのもつ物語のパワーを知っていると思います。マンガの中で描かれていることが自分や家族が病気の当事者になったときに改めて意味を持ったり、最初に読んだときには読み取れなかった情報が出てきたります。ドクターと患者さんとのやりとりから、老い、セクシュアル・マイノリティにいたるまで、医療マンガが提示する視点はさまざまであり、医療をめぐる多様な価値観に応えるポテンシャルがあります。医療の持つ漠然としたわかりにくさ、そういったものを「グラフィック・メディスン」という概念を活用して解きほぐしていくことを協会がリードして進めていきたいと思います。

落合隆志氏(左)、中垣恒太郎氏(右)

中垣恒太郎氏(右)
1973年広島県呉市生まれ。日本グラフィック・メディスン協会代表。専修大学文学部英語英米文学科教授。アメリカ文学・比較メディア文化研究専攻。著書として、『マーク・トウェインと近代国家アメリカ』(音羽書房鶴見書店、2012)、『アメリカン・ロードの物語学』(共編著、金星堂、2015)、『ハーレム・ルネサンス――〈ニュー・ニグロ〉の文化社会批評』(共編著、明石書店、2021)、メディア芸術カレントコンテンツにて、「人生を豊かにするための『グラフィック・メディスン』――『医療マンガ』の応用可能性」を連載中。

落合隆志氏(左)
1973年福島県郡山市生まれ。16歳で自分が告知した父をすい臓がんで亡くす。早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒業。一般社団法人日本グラフィック・メディスン協会(設立:2018年5月)代表理事。日本で唯一の医療人文専門出版社さいかす代表。株式会社メディカルエデュケーション代表取締役。著書『世界一わかりやすい。医学統計シンプルスタイル』など。

「グラフィック・メディスン」とは?

「グラフィック・メディスン」は、医学、病い、障がい、ケア(提供する側および提供される側)をめぐる包括的な概念であり、数量化による捉え方(一般化)が進む中でこぼれ落ちてしまいかねない「個」のあり方に目を向け、臨床の現場からグラフィック・アートまでを繋ぐ交流の場を作り上げようとする取り組み。その一環として、マンガをコミュニケーションのツールとして積極的に取り上げたり、マンガの制作を通して気持ちや問題を共有したりする活動が行われている。