国内外の校則の成り立ちを理解し、「トンデモ校則」について考えてみよう

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公開日:2021/8/18

校則を考える―歴史・現状・国際比較―
『校則を考える―歴史・現状・国際比較―』(大津尚志/晃洋書房)

「明るい色の地毛なのに黒髪強要」「下着の色指定」など、日本各地の細かな校則が疑問視されるようになって久しい。「トンデモ校則」「ブラック校則」という言葉が浸透するほどに、「校則には行き過ぎなものがある」という認識は一般的になった。ためしに筆者が8月初旬に「校則」というキーワードでニュース検索をしてみたところ、1ページ目に出てくるニュースはすべて1週間以内のものだった。中には、「指導している教員自身も内心おかしいと思っている校則がある」というようなコメントが記載されているものもあった。

「自分の学校はこうだった」という過去の違和感を打ち明け、「自分の子どもが行っている学校にはこんな校則があって許せない」と保護者たちが怒りをあらわにするようなステージは終わったのかもしれない。つまり、今すべきことは「本当に状況を変える」ための改革だということだ。

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『校則を考える―歴史・現状・国際比較―』(大津尚志/晃洋書房)は、過去をいたずらに否定し現状に怒りをぶつけるのではなく、しっかりと理詰めで校則について議論するための下地をつくるのに最適な一冊だ。著者の大津尚志さんは武庫川女子大学の准教授で、本書には校則の起源・生成過程、近年の実態調査、校則裁判の動向、アメリカ・フランスの事例との国際比較を記している。

「歴史」は江戸時代まで遡る。子どもが読み書きや計算を学ぶ場所だった寺子屋の多くには、体系的な規則はなかったそうだが、「掟書」というもので規則・褒賞・居残り・罰則などを明記していたところもあったという。明治に入ると、登校時間・身なり・障子や襖の開閉などに関する細かな記述がなされるようになる。20世紀後半、民主主義の時代になると、今現在なされているのと本質的には同様な「制服のあり方」に関する問題提起や議論が沸き起こるようになる。

 1980年代に入ると、校則が個々人の持つ自由に立ち入りすぎていると問題視されるようになり、1985年には日本弁護士連合会による全国985校の校則調査が行われた。当時の中学生の生徒心得の一例は下記のようなものだったという。

靴は「白を基本としたひもつきの運動靴(男子)」「白を基本としたひもつきの運動靴、黒または茶の通学靴(女子)」、靴下は男女ともに「白ソックス(白ハイソックス可・ワンポイント可)」、頭髪は男子は「横の髪は耳にかからない、後の髪はえりにかからない」、女子は「おさげ、おかっぱまたはこれに準ずる髪型とする。髪が肩に触れない、パーマ、髪かざりは禁止、長い髪は結ぶ」。まさに「細かすぎる」校則といえよう。

 世の中が大きく動き出すのは、インターネットの普及によって個々人が発信力を増した2010年代。多くの語り手が様々な「トンデモ校則」「ブラック校則」を指摘・共有しあう「群雄割拠」とでもいえる時代に突入することになった。

 こうした歴史的経緯の詳細な解説に加えて、本書が特徴的なのはアメリカ、フランスの校則との比較だ。国の成り立ちから既に多民族国家で、出自・肌の色・宗教などに関して配慮するのが当たり前、かつ銃などの武器やドラッグに関しても「注意すべきこと」が山ほどあるアメリカ。18世紀に市民革命で自由を勝ち取り、その後多くの移民を抱えた結果「公立学校におけるヒジャーブ(スカーフ)禁止法」を2004年に制定するに至ったフランス。これだけ文化・歴史的背景が違う2国と日本の校則の比較は容易ではないが、著者は特にフランスにおいて校則がどのような機能を果たしているかの「そもそも論」に、日本人が学び取れる点を見出した。

フランスにおいて校則は「心得」をさだめるものではなく、「規則」であり、生徒と学校の間での「契約」である。したがって、内容がきわめて曖昧な語句は使用されない。

 新型コロナウイルス対策やオリンピックの方策にも見られた日本人特有の「曖昧さ」が、あらゆる分野・局面で徹底的に駆逐されるべきというわけではない。しかし、戦後約70年の間ずっと議論がなされてきた日本の校則は、もう曖昧ではいけないのだろう。本書は、どのように冷静沈着な大改革が可能かという道標を読者に示してくれる。

文=神保慶政