歌を介して交わされる、男たちの究極にピュアで熱い愛憎! 『百人一首』に秘められた、ままならぬ恋の物語『身もこがれつつ 小倉山の百人一首』
更新日:2021/8/23
『百人一首』を習った高校時代、ふと考えたことがある。
「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ」
いつまでたっても現れない人を待っていると、まるで松帆の海岸で夕どきに焼く藻塩のように、わたしの身は恋焦がれるのです──『百人一首』の編者である、藤原定家自身の作だ。
『百人一首』には、こういった恋の歌が多く収録されている。藤原定家は、今でいう“恋愛もの”が好きだったのだろうか。彼は、なにを基準にこれらの歌を選び、並べ連ねたのだろう。そういった疑問へのひとつの答えを、きらびやかなエンターテインメントとして読ませてくれたのが『身もこがれつつ 小倉山の百人一首』(周防柳/中央公論新社)だ。
応保2年(1162年)、藤原定家は、平安時代に栄華を極めた藤原北家の傍流の家に生まれた。すぐれた歌人である父の薫陶を受け、日夜修行に励んでいた定家だが、元服の翌年、熱病が原因で、歌を詠むために必要な微細な音を聴きわける力を失ってしまう。
しばらくはふさぎこんだ定家だが、彼はやがて、紙と薄板を貼りあわせ、手札のようなものをこしらえた。その札に先人が詠んだ古歌名歌を書き写し、みな覚えてしまおうというのだ。耳で“詠む”ことはできずとも、絵を描くように精緻に歌を“作る”ことならできるはず。この国の歌壇に積み重ねられた幾千万の言の葉を用いて、われは匠の歌作りになってみせる──。
そんな決意を胸にいっそう歌道に没頭する定家を訪うのは、涼やかな目元とやさしい唇を持つ美丈夫、藤原家隆だ。彼はともに侍従をつとめた旧知で、定家の決心に耳を傾け、激励をくれる。「私はおぬしのそういうところが好きだよ」。定家は、鋭敏な聴力ゆえの歌の才を持つ家隆に思う。自分は匠の“歌作り”、家隆は天性の“歌詠み”として、ともに補いあい高みを目指していけばよい。よき相棒を得たことは、天の采配に違いない。
家隆とむつまじく勅撰和歌集の編纂に取り組み、歌で、肌で情を重ねる関係になると、定家の心は百人の女と会うより満ち足りた。けれど、歌に詠まれた空想の恋ではなく、現実の恋を知った定家は、それにともなう嫉妬の苦しみも味わうようになる。ときは、天下の勢いが鎌倉に押されている時世でもあった。定家らに勅撰和歌集の号令をかけた主君・後鳥羽院も、いまや倒幕に傾いている。歌を介して愛憎を交わしあう男たちは、渦巻く海に呑みこまれてゆくがごとく、運命に翻弄されることになるのだが……。
なにやら黙り込んだ歌の師(※定家)を、若き帝(※後鳥羽)がじいっと見つめている。
「治部卿(※定家)、もひとつ尋ねたい」(中略)
「なんなりと」
「そなたにとって、恋歌の極意はなんぞ」(中略)
恋歌の極意。おのれの歌の核。
軽い痛みを覚えながら、気がついたらほんとのことを答えていた。
「未練でございます」
歌のうちに詠まれたのは、雅びやかでおっとりとした和歌のイメージとは相反する、激しい心の動きだった。『百人一首』に選ばれた歌、そしてその並びにこそ、定家の想いはあらわれていたのだ。
「本の雑誌」2017年上半期エンターテインメントベスト10で第1位に輝いた『蘇我の娘の古事記』(角川春樹事務所)の著者が、承久の乱前後の史実を巧みに構成して解き明かす『百人一首』の謎と、ままならぬ男たちの恋。いまいちど、知っているはずの『百人一首』をひもといて、むかしの人々に思いを馳せてみたくなる。
文=三田ゆき