川を越えれば、新たな景色が見えてくる――息苦しさから心を解き放つ連作短編集『川のほとりで羽化するぼくら』彩瀬まるインタビュー

小説・エッセイ

公開日:2021/9/6

彩瀬まるさん

『川のほとりで羽化するぼくら』は、七夕伝説に材をとりつつ、空想の翼を軽やかにはためかせた短編集。収録された4編は、世界観や設定こそ異なるものの、どれも“川の向こう”へ渡る勇気を与えてくれる。

(取材・文=野本由起 撮影=山口宏之)

「以前刊行した『不在』は、ある女の子が封建的な家の閉鎖性に向き合い、必要なものと不要なものを選別して人生の血肉としていく話でした。これがけっこう面白く書けたので、今回はもう一歩進んで、私たちを縛る固定観念から脱出し、まったく別の価値観へ向かう物語を考えようと思いました。そんな話を担当編集者としていたところ、『深く考えず、慣習として行っていることって多いよね』という話題から『七夕って何に祈っているんだろう』という疑問がふと生じたんです。そこから七夕伝説をモチーフに、目に見えない縛りという“川”を越える話を書いてみようと考えました」

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 最初の短編「わたれない」は現代日本を舞台にしているが、そこから神話ファンタジー、SFへとダイナミックに転調していく。

「川を越えていく連作短編集だから、どんどん世界を飛躍させていいんじゃないか、むしろそのほうが面白いんじゃないか、と。そこで、思い切って舞台を変えていきました」

性差や旧習という“川”を軽やかに越える4つの物語

「わたれない」では、妻が稼ぎ手となり、夫が育児を担う家族の形が描かれる。だがいきなり子育ての主体を切り替えるのは難しく、社会通念や世間の目などに阻まれることも。いくつもの壁にぶつかりながらも、やがて彼は“川の向こう”に仲間を見つけていく。

「制度はあるものの、実際の運用が滞っていることってたくさんありますよね。例えば男性の育休制度が整備されても、なかなか取得率が上がらなかったり、育児関係の書類は“ママ”が主語だったり、男性用トイレにおむつ替えの台がなかったり、社会や街のデザインはまだまだ追いついていません。“子育ては母親がするもの”という縛りが根強く残っているんだなと感じます」

 彩瀬さん自身も、子育てを通じて固定観念の強固さを痛感したという。

「保育園に通っている娘が、ある時、『ママがエプロンで、パパがスーツなんだよね』って言い出したんです。理由を聞いたら、壁に貼ってある手洗いポスターのイラストに描かれていたそう。そういうところから子供は自分が求められる社会的な役割を吸収していくんだなと。子供の興味の対象も、社会が用意した『これは男の子向け』『こっちは女の子向け』というくくりに阻害されている気がして。本当は、垣根なくあらゆるものから影響を受けて、個人を完成させて欲しいのに……という、育児の鬱屈が詰まった短編です(笑)」

 続く「ながれゆく」は、七夕伝説の直接的な影響を感じる短編だ。織女たちが川の向こう岸で暮らす牛飼いと会えるのは、年に一度だけ。そんなならわしに疑問を抱いた織女の浅緋は、夫である藍丸と逃亡を企てる。

「もしも織姫と彦星が逃げ出したら……いや、逃げ出したいよな、こんな世界という気持ちで書きました(笑)。天の国を離反したふたりが、この国で不要とされるものと一緒に川を流れていくお話です」

 天の国には多くの織女と牛飼いが暮らしており、受け取った託宣によってそれぞれ異なる七夕伝説を信じているのも面白い。

「天の国にもきっと時代の変遷があるでしょうし、織女と牛飼いも世代によって考え方も違うはず。受け取る託宣によって、世代の違いを出そうと思いました」

 川を流れゆくふたりには、この先どんな運命が待ち受けているのか。彼らの行く末も気になるところだ。

「その後については、具体的に考えていません。でも、何があっても彼らは後悔なく生き、やがて死んでいくでしょうね。自分の中でそう思えた時、物語を手放す気になります」

 3作目の「ゆれながら」では、またもや別世界へと連れていかれる。舞台は、川によって隔てられたふたつの国。片方は旧来どおりの生活を続けているが、川の向こうの国では生殖システムが劇的に変化。性行為は行わずに体外受精と保育器で子供を作り、家や伴侶の概念も希薄になっている。ユーリは幼い頃に母とともに橋を渡り、この国に定住する。

「川を越えた先で生きるには、大きな変化を受け入れ、自分を変えなければなりません。2作書いたところで、川を越えた先で適応できるだろうかという疑問がふと湧いてきたんです。そこで3作目は、川を渡る前のほうが読者にとってなじみ深く、川の向こう側は違和感を抱くような世界にしました。戸惑いを飲み下し、その地で生きられるのか。変化を受け入れられた人とそうでない人のギャップも描こうと思いました」

 ユーリはこの国に適応するが、弟のミドはいつしか元の世界に憧れを滲ませるようになり、事件が起きる。

「社会が激変する時は、価値観が揺れ、不満が噴出しやすくなります。ただ、問題の根はそれだけではないとも思うんです。ミドが苦しいのも、本当に川を渡ったからなのか。もしかしたら、他に不安や理不尽を抱えていて、それが二国間のイデオロギー闘争と結びついたのかもしれない。そんなニュアンスも入れています」

 ラストを飾る「ひかるほし」では、舞台がふたたび現実世界に戻ってくる。主人公のタカは、もうすぐ80歳。結婚して数十年、家庭を支えてきたタカは、夫がもらった勲章を見て「私もこれが欲しい」と切望する。

「子供からジェンダーバイアスを取り除いたり、子育て世代が性差のない働き方を実現したりするのは確かに大切なことです。でも、これからの社会の変化をイメージした時に、そこにおばあちゃんが入っていないなと思って。私の祖母世代は、生き方の選択肢が少なく、つらい思いもしてきたはず。にもかかわらず、『もっとこうしたかった』という声は届きにくいように感じます。祖母世代にきちんと敬意が払われてほしい。その思いで、この短編を書きました」

 これまで夫や親戚を頼ってきたタカは、ひとりで生きる方法がわからない。それでもなんとか道を拓こうとする姿に、こちらも励まされる。

「タカさんは、物事を自分で判断すること苦手です。でも、それが元来の性格なのか、それとも割り振られた役割に適応してできた性格なのかは分からない。性別で自動的に役割を振るのではなく、もっと個人の資質が夫婦間で話し合われ、分業するのが当たり前になるといいなと思っています」

みんなが川を渡れるように浅瀬を探していきたい

 彩瀬さんが考えたという本書のタイトルにも、川を渡ろうとする人への思いが込められている。

「七夕伝説では、天の川って神様がかけてくれるものでしたよね。でも、誰かに許されて川を渡るのではなく、自分の力で、自由なタイミングで渡れるようになるといいなと思い、このタイトルをつけました」

 本書を書いたことで、彩瀬さんにも新たな思いが生じたという。

「ひとつ川を越えたらそれで終わりではなく、これからも川を越え続けなければいけないんだなと思います。かといって、うまく越えられない人が不器用だという話でもなくて。どうしたら自分や周囲の人々の苦痛を減らしていけるか、それこそが川を越えるという行為に当たるのかなと思いました。首尾よく川を越えられたなら、川があることにすら気づかず苦しんでいる人に、『こっちは浅瀬だから渡りやすいよ』と案内したい。これからも、浅瀬を模索するような作品を書いていきたいですね」

 

彩瀬まる
あやせ・まる●1986年、千葉県生まれ。2010年、「花に眩む」で第9回「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。著書に小説『あのひとは蜘蛛を潰せない』『不在』『森があふれる』『さいはての家』『草原のサーカス』、ノンフィクション『暗い夜、星を数えて─3・11被災鉄道からの脱出─』など。