京極夏彦ワールドのエッセンスが詰まった、分かりやすくてためになる講演集
公開日:2021/9/7
『京極夏彦講演集 「おばけ」と「ことば」のあやしいはなし』(文藝春秋)が刊行された。『百鬼夜行』『巷説百物語』などの人気作で知られるミステリー作家、京極夏彦氏がこれまで各地で行った講演を活字化したものだ。民俗学、歴史、宗教などの幅広い領域に通じ、とくに“妖怪”への知識では当代並ぶものがない京極氏。本書に収められている9つの講演でも、日本文化や日本語にまつわる多彩な話題を提供している。
ところで本書の序文で京極氏は、「僕は小説家です。独り黙々と文章を書くのが仕事です。平素より口を利く機会は極めて少ないわけで、喋ること――まして人前でお話しすることなど、得手であろうはずもありません」と述べているが、この点にはやや異論がある。私の知る限り、京極夏彦氏ほどトークスキルが高い作家はそうそういないのだ。オフィシャルな場であろうと、プライベートな場であろうと、京極氏の語りは聞く者を和ませ、笑わせ、魅了する。普段の語り口をそのまま再現したこの講演録でも、京極氏の会話の名手ぶりが伝わってくるはずだ。
第1章「世界の半分は書物の中にある」は、本書全体の基調をなすような講演だ。東京国際ブックフェア・読書推進セミナーで行われたこの講演では、人類の歴史において言葉と文字の発明がいかに重要な出来事であったかを解説する。たとえば空に浮かぶ衛星を私たちが「月」だと認識するのは、月という言葉があるから。「言葉の数だけ人間は世界を手に入れることができる」。書物はその手助けをしてくれる存在だ。言葉と文字によって再構成されたもうひとつの世界、つまり書物の中には現実を凌駕するほどの質量をもった世界が広がっている、と著者は言う。
「この世に面白くない本はない」という京極ファンにはよく知られた見解も(「百鬼夜行」シリーズの中禅寺秋彦もまったく同じことを主張する)、言葉に対するこだわりと畏敬の念から生まれているのだ。「『ことば』と『おばけ』の関係」「日本語と“妖怪”のおはなし」の2講演では、言葉と「おばけ」が密接な関係にあることが、日本語の特性とともに解説されていき、こちらも興味深い。
より具体的なテーマに即した章もまた面白い。「水木“妖怪”は何でできているか」「水木漫画と日本の“妖怪”文化」は、『ゲゲゲの鬼太郎』の作者・水木しげるへのオマージュともいえる講演。人柄が偲ばれる微笑ましいエピソードを交えながら、戦後文化における水木しげるの功績を明らかにする。『水木しげる漫画大全集』の監修者として、6年間水木しげる作品に向き合い続けた結果「水木しげるの目を持つ」ことができるようになったという体験談などは珍しく“素顔の京極夏彦”をうかがわせる貴重な発言だ。
「『怪しい』『妖しい』『あやしい』話」「柳田國男と『遠野物語』の話」「河鍋暁斎はやはり画鬼である」などの章は、よりディープにおばけというテーマを掘り下げており、京極妖怪論の実践編ともいうべき講演だ。個人的に刺激的だったのは、「幽霊は怖いのだろうか?」と題されたパート。ここでは一般に“幽霊の怖さ”とされているものを列挙し、歴史的経緯を踏まえながら分析して、幽霊は怖くないはずだ、という結論を導き出す。そのうえで、では私たちは何を怖がっているのか? というさらなる問いを導き出すのである。その知的興奮は「百鬼夜行」シリーズの憑き物落としシーンさながら。怪談に興味のある人なら必読の一章、と断言してしまおう。
ここまでの紹介を読んで「ちょっと難しそうな本だな」と感じる方がいたらそれは勘違いだ。論旨は明快にして、語り口は平易。『怪物くん』『ワンピース』『シベリア超特急』などの身近な喩えを用いながら、豊かな内容を単純化することなく、でも分かりやすく伝えてくれる。ページをめくるうちに世界の解像度が高くなっていくような感覚は、まさに『姑獲鳥の夏』以来の京極作品と共通するもの。読み応えも面白さも、小説には劣らない。
本書を読み終えて痛感したのは、物事をちゃんと考えることの大切さだ。そしてここが重要なのだが、物事をちゃんと考えることは、ゆるく生きること、やわらかく生きることにもつながっている。その意味で、本書は日本文化を論じた講演集であると同時に、優れた人生指南書だともいえるだろう。常備薬のように、本棚に据えておきたい一冊だ。
文=朝宮運河