カナダには行かないし、雄介とも結婚しない(卯月・東京)➀/月曜日の抹茶カフェ
更新日:2021/9/27
川沿いの桜並木のそばに佇む喫茶店「マーブル・カフェ」。定休日の月曜日、1度だけ、京都の茶問屋のひとり息子によって 「抹茶カフェ」が開かれる……一杯の抹茶から始まる、東京と京都をつなぐ12ヵ月の心癒やされるストーリーが試し読みに登場です! 『お探し物は図書室まで』の著者・青山美智子氏のデビュー作『木曜日にはココアを』 のおなじみのメンバーも登場するシリーズ続編です。友人・光都と待ち合わせをする佐知。食事のさなか、彼女が話し出したことは……。
ショルダーバッグを肩にかけなおしたとき、手の甲にぽつんと冷たいものが落ちた。
ハッとしてその水滴を見る。ぽつん、ぽつん。立ち止まった私のジャケットにも、デニムのスカートにも、曇り空から雫が落ちてくる。雨だ。私は安堵の息をもらす。
よかった、私は、泣いているわけじゃない。
両国の温浴施設の中にある、和食レストランを待ち合わせ場所に指定してきたのは光都だ。
レストランは三階だった。入り口からのぞいたら、奥の席に座ってのんびりくつろいでいる光都の姿が見えた。私は店員にちょっと会釈して、そのまま突き進む。
光都が私に気づき、左手を挙げた。右手では箸を持ち、天ぷら定食を食べている。私は光都の向かいに腰を下ろし、まず謝った。
「ごめんね、遅くなって」
「ううん。雨、降ってた?」
光都は海老天をつゆにつけながら言った。亜麻色に染めたベリーショートの髪が濡れている。もうすでに、ひと風呂浴びてきたのだろう。私と同じ二十九歳だけど、彼女は年齢不詳だ。メイクや服装によって、うんと年上にも、うんと年下にも見える。すっぴんの今は、すごく幼く見えた。
「ぱらぱらっとね。でもすぐやんじゃった」
私はそう答え、テーブルの端に差してあったメニューを広げた。
四月に入ったばかりの今日は、雨が降ったりやんだりで、おかしな天気だ。どんより曇っていたかと思えば、突然、晴れ間が見えたりする。
刺身定食にしようかな、と私が言うと、光都が笑った。
「佐知はそれ選ぶと思った。魚、好きだから。カナダに行ったら刺身もなかなか食べられなくなるもんね。あ、日本食レストランぐらいあっちにもあるのか」
「…………やめたんだ」
「ん?」
「やめたの。カナダには行かないし、雄介とも結婚しない」
光都の箸の動きが止まる。それを視界の隅で確認しつつ、私は店員に「すみません」と声をかけた。
すると光都は、味噌汁の椀を手に取りながら「そっか」とだけ、あっさり答えた。
やってきた店員に注文を終えると、私は背もたれに寄り掛かるようにして深く腰掛け、光都に言った。
「お風呂、もう入ったんだね」
「うん、ざぶっと。空いてたよ。アロマエステとか岩盤浴もあるって。私、泥パックやろうかな。壺に入ってるやつ、セルフで塗るんだって」
「塗り合おうか。背中とか、手の届かないとこ」
「いいね」
フラットなトーンで、なんでもない会話が続く。
私は来月で仕事を辞めて、アパートを引き払って、三ヵ月前に先にカナダへ渡った雄介のところに行くはずだった。挙式は内々ですませる段取りが決まっていたし、雄介の家族は温和な人たちで、私の両親も雄介を気に入って喜んでいた。商社マンの旦那とカナダ暮らしなんていいなあと、同僚にうらやましがられた。
それを全部白紙にしたのは私だ。一週間前に。
刺身定食はすぐに運ばれてきて、私たちはたわいもない雑談を続けた。私が医療事務をしている小児科のこととか、通販オペレーターをしている光都の職場裏話とか。
婚約破棄の顛末について、光都は何も訊いてこなかった。もちろん、私が話し出せば必ず聞いてくれることもわかっている。遮ることなく、最後まで。
私は彼女の、こんなところにいつも安心する。光都はずかずかと踏み入ってこない。無理して誰かに合わせたりもしない。でもいつも周りのことをよく見ていて、静かに慮っている。
光都が待ち合わせ時間よりうんと早く来てひとりで風呂に入ったのは、ロケハンを兼ねてのことだ。先に天ぷら定食を食べていたのは、電車が止まって来るのが遅くなった私に気を遣わせないためだ。
そしてそれは光都がそうしたいからであって、「してやってる」という恩着せがましさがまるでない。人付き合いが決してうまいとは言えない私は、数少ないこの友達のことが……光都のことが、すごく好きだ。
温浴施設に誘ってくれたのも壮行会みたいなものだったのだろう。私が海外に行く前に、日本っぽい場所で遊ぼうと考えてくれたに違いない。
そのことには申し訳なく思いながら、私は光都と会えてどうでもいい話ができることにほっとしていた。
食事を先に終えた光都は、メニューを開いてデザートを選び始めた。ふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば、こないだマスターが佐知の歌、褒めてたよ。前からよかったけど、このところ声に深みがあって、ファンも増えてるって」
マスターとは、川沿いにあるマーブル・カフェのオーナーだ。こじんまりとした喫茶店で、普段はワタルくんという若い雇われ店長がひとりできりもりしている。
去年からそこでたまに、イベントをやるようになった。店の定休日や閉店後の時間を使って。そのときだけマスターが仕切っているのだが、彼の名前は誰も知らなくて、みんなただ「マスター」とだけ呼んでいる。
大学時代にフォークソング部に入っていた名残で、社会人になってからも私は時々、小さなライブハウスや野外イベントで歌を歌っていた。それは頼まれたり、自分から申し込んだり、いろいろだった。ギター一本あれば恰好がついたので、誰とも組んだことはない。ひとりで自由で、気楽なものだった。