暗闇ボクシングの真相/岩井勇気『どうやら僕の日常生活はまちがっている』
公開日:2021/10/2
暗闇ボクシングの真相
ここ何年も運動という運動をしていない。高校生までずっとサッカーをやっていたので、やめて10年以上経つ今でも、その頃の筋肉や運動神経の貯金が残っている気がしていた。しかし現実はそんな貯金などとうの昔に使い果たし、オケラのくせに態度だけは金持ち気取りの没落貴族と化していたのだ。
筋肉が衰えたため首や腰に負担がかかり頻繁に痛くなることが続いていたので、一度病院へ行ってみると、やはり「定期的な運動をした方がいい」ということらしい。この「定期的な運動」というのは意外と難しい。
よくあるマラソンやウォーキングといった自発的な運動は、誰の監視下にも置かれずにやるのが基本なので、確固たる継続の意志を持っているか、それ以外に何もやることがない限りは続かない。スポーツジムに入会してトレーニング器具で定期的に運動をするというのも同様の理由でかなり難しい。そうなると、どこかのスポーツ教室のように監視する教官がいて、定期的に行かないと気まずい、という枷を自分に与えるのが良いのではないかと考えていた。
先日、友達との会話の流れでこの話題になった。僕が「何か運動してる?」と聞くと、その友達は「やってるよ。暗闇ボクシング」と言った。
暗闇ボクシング? 全く聞いたことがない。なんだその狂気を含んだ響きは。呪われた一族に伝わる暗殺術かなにかだろうか。
その時、僕が訝しげな顔をしていたのか、友達は「あー、暗闇の中でボクシングをやるやつ」と付け加えた。
暗闇の中でボクシング? どういうことだ。対戦相手が見えないじゃないか。音や気配だけで相手を察知してパンチするのか。続けていれば五感は研ぎ澄まされそうだが。
しかし対戦相手の気配を感じてパンチしたなら良いものの、もしレフリーを殴ってしまっていては大変だ。そのまま気付かずレフリーをノックアウトしてしまった場合、反則負けになるのだろうか。暗闇でボクシングをやらせておいて、それで反則負けにさせられてはたまらない。
そう考えると、もしかしたらレフリーだけは暗視スコープのようなものをつけているのかもしれない。レフリーだけが暗闇の中でも見えているリングで、2人のボクサーが戦っている。奇天烈な格闘技だ。
観客はどうだ。携帯電話の明かりで照らすこともできないので、恐らくリング上のボクサーは見えない。シューズがキュッと擦れる音や、たまーに当たるパンチの音で楽しむのだろうか。それはもはやボクシングの試合を観に行き過ぎて、普通のボクシングの試合に飽きている人向けじゃないのか。セコンドの丹下段平も「打ってる? 打ってるのか? ジョー」と言うことだろう。
解説者の仕事も難しく、音だけを聞いての実況も容易ではない。しかも、会場が暗闇なので映像は映せず、ラジオのようなもので音声だけの中継になるのだろう。昔かよ。暗闇の中でボクシングをすることにおいての疑問は尽きない。
するとさらに友達は「サンドバッグをさ、暗闇の中で殴るのがいいんだよ」と言う。そうか、ボクシングジムに通うと言っても健康のために通っている人は、トレーニングを中心に行うことも多い。試合などはしないのだ。
それにしても暗闇の中でサンドバッグを見失ったりはしないのだろうか。というか、ボクシングジムのどこからが暗闇なのだろうか。それによってはサンドバッグまで辿り着けない可能性がある。サンドバッグのありそうな場所まで手探りで歩いてみて、とりあえずこの辺りかな? と思う場所を殴ってみるのか。サンドバッグの場所を見つけることに慣れるまで何日もかかりそうだ。
しかし実際に行ってみたら、ジムの受け付けからすでに暗闇の可能性もある。まず「すいませーん」と言ってみて「こちらへどうぞー」というような声のする方向が受け付けのカウンターだろう。そこで入会したいという旨を伝えれば、入会書を渡されるはずだ。暗闇の中で入会書を書くのは至難の業だが、とりあえず適当な場所に名前と電話番号と入会の動機などを書いて提出すれば、ジムの人もどこに何を書いたかは見えないはずなので問題なさそうだ。
だが、入会金を支払う時が厄介で「入会金、ン千円になります」と言われて払っても、払ったお札が何円札なのかがわからない。「一万円からお願いします」と言って一万円札を渡しても「これ、本当に一万円札ですか〜? 千円札なんじゃないんですか〜?」と疑われることだろう。暗闇受け付けでの金銭トラブルは必至である。暗闇ボクシングを始めるまでの道のりは長いのだ。
そもそも、なぜボクシングを暗闇の中でやるのだろう。暗闇の中にいると視界が無い分、見えるものに気を取られず、集中して自分と向き合えるということなのだろうか。
そんなストイックな精神でボクシングをやっているのなら、暗闇ボクシングの試合に出ろよ。なんで自分を高めておいて練習止まりなんだよ。ストイックなのか意識が低いのか、どっちなんだよ。
そんなことを思ったので、友達に「なんでわざわざ暗闇でボクシングやんの?」と聞いてみた。すると友達は「暗闇の中だと周りが気にならないから、集中して自分と向き合えるんだよ」と言った。
暗闇ボクシングの試合に出ろよ。お前ならできるよ。構えたミットのど真ん中に寸分違わずパンチが飛んできた。しかし友達は、僕がどうやら何かを勘違いしていると察したのだろう。とどめの一言を言い放った。
「暗闇って言っても薄暗い程度で、クラブみたいにライトアップされたジムで音楽かけながら、リズムに合わせてサンドバッグに打ち込むんだよ」
おいおいおい、とんだパーリーピーポーじゃねぇか。さっきまでの、自分と向き合って肉体と精神を高めていたストイックなお前はどうしたんだよ。まるで真逆の人間になっちまったじゃねぇか。
僕は幻滅した。清楚で純朴そうな、メガネをかけていて地味だけど顔は整っているクラスの女子が、プライベートでチャラついた一軍男子たちと遊んでいるのを見かけたような気分だ。
聞くところによると、暗闇ボクシングとは新手のエクササイズのようで、巷で今流行りのスポーツトレーニングらしい。友達は週に1、2回そこに通っては軽く汗を流しているということだった。
不意に得た興味を一瞬で削がれることがある。僕は友達に暗闇ボクシングを一緒にやってみないかと誘われたが、断った。
運動はしようと思っている。もし僕の想像の方の暗闇ボクシングを見つけたら入会するかもしれない。